『僕のヒーローアカデミア』を読む:子どもたち秩序と混沌に立つ

本稿の内容

・「ヒロアカ」社会状況の整理と問題

オールマイト以後の時代はどうなるのか

・緑谷〜爆豪ラインの整理

 

 

(1)オールマイトという秩序

 超人社会黎明期という一つの混沌をより分けて、「ヒーロー」と「ヴィラン」という二つの立場が作り出された。これまでの「人間」像を破壊するような人間が秩序の内側を闊歩する混乱の中、前者は「能力を用いて市民を助ける正義の人」、後者は「能力を用いて市民に害をなす悪の人」ととらえられている。しかし、「助ける」とは何か? 「害をなす」とは何か? これらは単発の行動に対する一つの評価であって、個人単位の評価では微妙な場合、誰を対象と見るかによって意味が変わる場合など、曖昧で多元的な基準である。ではどのように分けたのか。スピンオフ作品『ヴィジランテ』を参照すると、自警団(ヴィジランテ)の中から世間の支持を得た者が世論によって「ヒーロー」として政府に公認され、それ以外の場合で勝手に個性を行使する者が「ヴィラン」になる、という流れを辿っていたことがわかる。肝は「人気」だ。社会において看過されないレベルで己の「個性」=暴力を使うという意味ではヒーローもヴィランも同じだが、「この人なら人を傷つける意図ではなく、人を助けるためだけに能力を使ってくれるだろう」という「市民の信頼」によって暴力は正当性を帯びたのだった。この「人気」だの「市民の信頼」だのの、なんと曖昧なことか! 
 つまり原初人をヒーローたらしめたのは「人を助けよう」という一方的な意思ではなく、「あなたを助けたい」「私はあなたに助けてほしい」という、「救済」行為に対する双方向からの同意の成立だったのである。これを「救済契約」とでも呼んでみよう。救われる側が手を伸ばし、救う側も手を伸ばして初めて握手に至るのと同じである(作中の「手を握る」行為は頻繁に救済契約成立のシンボルとして読み取れる)。

ヒーローになりたいなら手を差し伸べるだけではダメだ。相手からも信頼して受け入れてもらえないなら、救済は成立しない。そのために、ヒーローは「己が何者であるか」を社会に開示し、自分がヒーローであることを担保せねばならない。本来身体能力でしかない「個性」を、「あなたがたを助けるためだけに使う力です」と意味付けする。ヒーローネームもスーツも、「ヒーローであること」を己に固定するための道具だ。ヒーローたちは王のように身体をもうひとつ用意し、「ヒーローの身体」を後天的に身にまとう。

 これを「ナチュラルボーンヒーロー」として一つ上の次元でやりとげた男がいた。オールマイトである。

 


 オールマイトの魅力はいくらでも挙げられる――「私が来た!」という決めぜりふ、景気のよいルックス、決して消えないほほえみ、そして圧倒的な力。彼は「平和の象徴」になると誓って鍛錬を積み、それを達成した。オールマイトは無二の思想だ。彼は社会の精神的秩序になったのだ。

 作中、「オールマイト以前はよかったぜ」と嘆くチンピラが登場する。いわく、オールマイトが現れる前は「衝動が国に充満していた」そうだ。衝動とは無秩序なパワーである。やりたいことがたくさんある、ルールも突き破って何もかも思い通りにしたくなる、エネルギッシュなうずきである。しかし、オールマイトが現れてから法を犯す人間は確実に減った。オールマイトが超人社会の「中心」に立ったことで、社会の混乱は彼を中心とする同心円に均されたのである。カオスが秩序に編成され、みながそこに「おさまった」。そこをはみ出てまで何かをしようと思わなくなった。彼が正しい。彼の正しさの中にいればいい。皆そう感じている。犯罪の減少自体は喜ばしいことだ。しかし考えてみてほしい、たった一人の人間の思想が社会の秩序を作るのは、果たして健全なのか? いくら平和でもそうは言えない。価値基準が一つに集約されてしまうからである。「良くも悪くも、今は抑圧の時代だ」とグラントリノは話す。同心円は中心を作ると同時に周縁を発生させる。オールマイトによって生きやすくなった人がいる反面、周縁化されて秩序の縛りがよけいに苦しくなった人もいた。「オールマイト以前はよかったぜ」と言う人だって、アウトローだが人間だ。ヴィラン連合のトゥワイスも、「やつらが救うのは善良な人間だけで、いかれちまった人間は救われない」と語った。オールマイトの手からこぼれた人たちは、今の社会に居場所がない。オールマイトの理念に適合できなかった「いかれちまった人間」たちはどこへ行けばいいのか? 「善良」も「いかれちまった」も恣意的に割り振られる適切と不適切、何もかも政治的ではないか! 誰が守られ、誰が守られないのか? 誰が守っていて、誰が壊しているのか? そもそもヒーローとは何か? 超人社会は無数の問題を抱えている。

 

(2)オールマイト以後

 オールマイトが考えた象徴論は確かに莫大な効果を生んだが、結局象徴の再生産以外に続ける方法がない。オールマイトは本来苦しむ人に心を寄せて寄せて寄せて寄せて、どうにかできうる限り広範囲に「手を伸ばす」ために「象徴」になったのだろう。当時は一心不乱に、無我夢中の狂気で象徴を目指したに違いない。しかし今や彼の立場はオールマイトという一人の人間が責任を取れる範疇を超えて大きくなってしまった。社会はオールマイト一人に暴力を担わせすぎたのだ。

 無二の思想にして精神的秩序、オールマイトは神野事件によって引退した。精神的な支柱、同心円を組織していた中央が抜け、社会には穴が空いた。彼が負っていた暴力は、行き場をなくして社会に蔓延する。No.2のエンデヴァーが繰り上げでNo.1になったものの、支持層は20〜40代に偏っていて、全員から「信頼」を寄せられているわけではないらしい。トゥワイスいわく彼は「ヒーロー弱体化の象徴」だ。エンデヴァーでは「足りない」のに彼しかいないと人々は知っている。オールマイト引退後、犯罪発生率は確実に上昇し始め、徒党を組んで計画的な悪事に励む連中が増えてきた。秩序が崩れて「オールマイト以前」の衝動が少しずつ蘇る。まだ「衝動」の段階だが、同心円が崩壊したおかげで「飛び出す」人間が連帯し始めた。嫌な想像が簡単にできる、この先、ヴィラン側からオールマイトのような思想が出てきたら社会はどうなってしまうだろう? 先ほど述べたように、超人社会は矛盾だらけだ。いくらでも人がなびく余地がある。

 死柄木弔について考える。彼は「オールマイトの「手」からこぼれた子供」であった。オールマイトの師匠の孫だが、親に捨てられ、唯一彼に手を伸ばしてくれたのが「オール・フォー・ワン」、裏社会の「秩序」である。オール・フォー・ワンは教育を心得ているから、死柄木を育てはしても思想を植え付けるようなまねはしない。自分が腹の底から感じていることを自分で言葉にした「思想」が一番強いからだ。最初は破壊衝動だけで行動していた死柄木だが、ステインと接した経験、そして神野事件での「卒業」を境に、大きく成長を遂げた。自分が社会に違和感を感じていたのは、自分を捨てた人間の系譜がこの社会の秩序になっているからだと気づいたのである。死柄木は次なる裏社会の秩序になるだろう。あたかもオールマイトが出久を後継者として育てているように。

 

 

(3)子供たち

 さて、問題はこの先だ。「オールマイト以後」という時代区分に立ち会ったヒーローたちは、いかに「穴」と向き合うのだろうか。

 好ましくない経緯でNo.1となったエンデヴァーは、引退したオールマイトに「平和の象徴とは何か」と尋ねた。彼は自分が穴を埋められないことに責任を感じている。オールマイトはそれを見越して、「私の目指した象徴を君もなぞることはない」「自分にあったやり方を見つければいい」と話す。会話の最後、「何のために強くあるのか エンデヴァー 答えはきっととてもシンプルだ」というセリフとともに描かれるのは、子供の前で炎を出して見せる轟焦凍だ。親を憎んで使わずにいた「左」で子供たちと真摯にコミュニケーションを取ろうとする焦凍の姿が示す「答え」は、「目の前の人に全力で向かい合う」ことだろう。オールマイトは以前出久に「手の届かない場所の人間は救えない。だからこそ、象徴であり続ける」と告げている。ヒーローの根幹とは、まずはとにかく目の前の相手に全力で「手を伸ばし」、相手にも「手を伸ばしてもらう」、救済契約の成立だったはずだから。

  オールマイトのやったことを、ヒロアカは決して全肯定していない。彼が切り捨ててきたものを丁寧に描くし、彼のせいで苦しんだ人、縛られる社会も容赦なく出てくる。暗部がはっきり描写されている以上、このまま出久が第二のオールマイトになるかといえば、おそらくならないだろう。そうなってしまえば次に訪れるのは、出久が引退したあとの「デク以後」という虚無だからだ。今作がオールマイトを出久に挿げ替えて描きなおす物語だとは思えない。
 展開の予想という行為にさして意味を感じたことはないが、今の時点である程度の確信を持って想像できるのは「緑谷出久爆豪勝己を中心として、雄英高校のクラスメイトたちが並び立つヒーローになる」ということだろうか。なんといっても『僕のヒーロー“アカデミア”』なのだ。この章ではオールマイト以後を担うアカデミアの子供たちについて考え、想像の背景について記述していこうと思う。

 

⑶-ⅰ 緑谷出久

 緑谷出久というヒーロー志望者について、オールマイトの元サイドキックであるサー・ナイトアイは「私が理解できなかったオールマイトの底にある狂気によく似ている」と評した。サーはオール・フォー・ワンによって呼吸器を半壊する怪我を負ったオールマイトを必死に止め、「あなたはこのままでは凄惨に死ぬ」「人間らしい暮らしに戻ろう、引退しよう」と懇願したが、結局「その間に何人の人が苦しむ?」「私を探している人がいるから」と振り切られ、コンビ解消に至った経緯がある。解散の原因こそ価値観の違い、オールマイトの「狂気」なのだ。目の前の人の優しさを振り切って社会のために身投げした彼の思想の源流を、サーは出久に感じ取っていた。

 

 出久が持っているのは、オールマイトが人を助ける姿への憧れに由来する「人を助けたくなる衝動」である。相手がどう反応するか、自分は行動の責任を取れるのか、この行動が自分のその後にどう影響するのかなどを考えるより前に、苦しむ人に「手を伸ばして」しまう人物なのだ。自分で解決できない領域のことであってもなりふり構わず行動するせいで、「手を伸ばし」ても少なからず相手に迷惑がられたり拒絶されることもある。この点に関してオールマイトは「きれいごとを実践する仕事」「余計なお世話がヒーローの本質」と彼のこの性質を資質として認めているため、一つの意見として美徳と見ることはもちろんできる。

 その一方で、彼はヘドロ事件・保須市の事件・神野事件など、許可なく動く例が極めて多い。最終的にはよい方向に転がることが多いため毎度許されているが、母親からは「心臓がもたない」と泣かれたり「次は正規の活躍をしよう」と相澤に釘を刺されるなど、子供に秩序を教育する立場の人々からは何度も憂慮を示されている。彼の行動もまた秩序をかき乱す性格があることは見逃せない。「アカデミア」で教育される身としては極めて危うい立ち位置にあると言える。第1章では原初ヒーローとは「市民の信頼」で決まるものであったという経緯を確認したが、現在の超人社会において「信頼」云々の判断は制度と教育で代替されている。人を救うためにルールを破り続ける出久は、制度に収まりきらない「狂気」を抱えて立っているのであった。

 

 さて、出久に関しては〈拒絶されても手を伸ばして最終的に「救われる側」の心を開く〉という流れが繰り返し現れる点が重要である。

 具体的には轟との対話やマスキュラー戦などが挙げられるが、ここでは死穢八斎會事件について説明せねばならない。詳細は省くが、重要なポイントは緑谷の衝動が事件に救いをもたらしているということだ。最終決戦時、エリは救われることを一度諦める。自分のためにぼろぼろになっていくヒーローたちを見て、「自分が傷つく方がよっぽどよい」(=彼らは自分が受ける暴力をかわりに背負いきれない)と判断してしまうのだ。サーの予知も絶望的だった。具体的にはエリの死、治崎の逃走、ヒーローのたまごたちも負傷・死……。

 しかし、いくら傷ついても自分を諦めなかったミリオ、そして手を伸ばし続けた出久の姿によってエリに「救われる覚悟」が芽生える。結局事件の目的を達成した大きな要因は、覚悟を決めたエリの覚醒だった。このことをサーは「皆がそれぞれ未来を望むエネルギーをつむいだために予知が覆ったのだ」と話す。動けなくなるようなことは絶対するなと先生にとめられようが、救う対象に拒絶されようが、出久たちは自分の仕事を信じ抜いて状況を好転させたのであった。

 

 この事件の流れは読者に多くの予感をもたらす。オールマイト以後という時代は、出久たちの衝動がヒーローに火をつけ、ヒーロー一人一人が全力で伸ばせる限りに手を伸ばし続ける、「希望のエネルギー」が満ちた社会を作るのではないだろうか。言ってしまえば、全員がオールマイトになるのだ。そしてヒーローとヴィランの曖昧さなど、ヒーロー社会のルールをめぐる問題をここまで取り上げている以上、出久たちの成長とともに社会の方も変化していくのだろう。

 「熱の伝播」……節の最後に、仮免試験の最中、相澤が1-Aの印象について語った言葉を思い出して欲しい。「仲は最悪、クラスの中心にいるわけでもない、しかし「二人」の熱がクラスに熱を伝播させていく」……。もし先ほどの予想が的中し、オールマイトの引退した社会を「希望のエネルギー」を抱いたヒーローたちの「束」が超えていくとすれば、間違いなくこの先「オールマイト以後」の根幹となるのが、緑谷と爆豪なのである。

 

⑶-ⅱ 爆豪勝己

 なぜ「熱の伝播」の渦中が出久と爆豪がいるのか……それは熱の伝播には競争が不可欠であるからだ。今節では爆豪を中心に、幼馴染の関係性を解きほぐしてみたい。

 

 爆豪は本来自分を客観視できる理性の人であり、繊細なモラルや気遣いも持ち合わせているが、それらを振り切ってありあまる山のようなプライドが彼を過剰に攻撃的な行動に駆り立てている。だからこそ自分の言動の責任を取るつもりがあるし、むしろあえて競争を呼び込むために挑発をするキャラクターだ。彼は名前の通り、望む自分になるために今の自分と戦い続けているのだ。

 

  思えば最初から、爆豪は出久を認めなかった。自分より弱いくせに、何かあると「大丈夫?」と手を差し伸べてくる幼馴染の存在自体、爆豪には屈辱だったのだ。彼に「手を差し伸べられる」というのは、自分の弱さを突きつけられているのと同義である。出久という鏡に自分の許せない部分が映り込むからこそ、爆豪は彼を受け入れない。

 作中に登場する彼の転機を確認していこう。

 まず第1話である。中学時代の爆豪は、「ヒーローになって高額納税者ランキングに名を刻む」と豪語し、不良とつるみながら内申を気にする、表層的な振る舞いが目立つヒーロー志望者だ。出久をバカにした嫌がらせを続けて雄英進学を断念させようとするなど、わかりやすい「いやなやつ」である。1話冒頭では彼が「出久に対する世間の評価」そのものとして機能する。

 しかし、ヘドロ事件で爆豪は一変する。絶望的な状況に対して何もできないのに突っ込んできた出久の姿に衝撃を受けたのだ。ここで重要なのは、この事件が爆豪に与えた衝撃と世間の評価が裏腹だったことではないかと思う。爆豪が今までバカにしてきた相手の底知れない可能性を目にして恐れを抱いた一方、世間で賞賛されたのは抵抗し続けた爆豪で、出久は「危ないことをするな」と厳しくたしなめられた。このことは、彼の価値観を「世間の基準に君臨するための挑戦」から「己が目指す己になるための戦い」へシフトさせたのではないか。まさに「勝己」である。そしてこの思いはヘドロ事件の時に発生したものではなく、彼がもともと持っていたのに周囲にライバルがいないせいで忘れていた感覚なのだ。ここでも競争の必要性が浮かび上がった。そして同時に「世間に理解されない」彼の険しい道も強調されることになる。

 

 次いで、入学最初の戦闘訓練における敗北がある。ここで初めてはっきり現れてくるのが、出久が「君に勝ちたい」と言うことそのものへの拒絶である。爆豪はそもそも出久が自分と同じ土俵に上がってくるのが恐ろしいのだ。出久を自分と同じ単位であると認識したくない一心で爆豪は私怨に全振りした行動を取り敗北した。「ここから一番になってやる」という決意表明は、爆豪がヒーローになるための第一歩でもあり、出久をライバルとして認識する第一歩でもある。「他者によって己の弱さを知る」というそれまでの爆豪に不足していた姿勢が、ここで少し受け入れられる。

 そう、他者なのだ。のちの体育祭で「俺が一位になる」という宣誓を「笑わずに」(出久はこれが侮蔑ではなく「自分を追い込む」挑発だと見抜いた)行ったこと、そして轟の戦意喪失に激怒したのも、中学の時の彼からは想像もつかない成長ではないか。自分と相手が対等に闘志を抱いて全力でぶつかることを望んだのは、爆豪が他者を自分と同じ単位で認識した証拠ではないか。

 続く期末試験の出久との共闘で、爆豪は信念のために屈辱を飲み込む決断をする。一度は「出久の力を借りるぐらいなら負けた方がましだ」とまで言った、そこまで嫌っていた相手を、オールマイトという憧れを目の前にして初めて己のなかに組み込んだのだ。それでもまだ対話には至らない。

 

 

 爆豪が他者を認めることの意味は極めて重要だ。出久が皆の「先」に立って突っ走ることで熱を伝播させる存在であるのに対し、爆豪はその立ち位置とストイックすぎる生き方ゆえに他者に「背後から」火をつける。すなわち、常にできうるかぎり上を目指している爆豪がいることでクラスメイトは奮起するし、爆豪に認められることは粉飾一切抜きの承認だと確信できるのである。

 

 彼の他者認識に関して、林間合宿及び神野事件は極めて象徴的だ。出久は林間合宿で伸ばした手を爆豪に拒絶され、「完全敗北」を喫する(これも「救済契約の不成立」からくる敗北、という意味が含まれる)。その後彼は「まだ手は届く」という切島の言葉にあてられて「誰からも認められないエゴ」のつもりで爆豪救出に向かい、爆豪に「手を伸ばす」役割を「他のだれでもだめだ」として切島に依頼する。あの場にいたメンツのうち、最初から爆豪と対等に向き合い続けてきたのは切島だけだったからである。ヒーローがヒーローの手を取ることは救済である以上に協力だ。「助けられたわけではなく離脱に最適な手段がお前たちだっただけ」と爆豪が強調しているが、切島はこの屁理屈を笑顔で受け入れる。お互いに尊敬があるからそれができる。幼馴染にはそれができない。

 

 出久と爆豪の憧れの違いは残酷に現れる。仮免試験のあと、出久を深夜のグラウンドに呼び出した爆豪は、出久の個性がオールマイトから受け継いだものであると看破した上で「お前の憧れが正しくて俺の憧れは間違っていたのか」と問う。

 幼馴染はこの夜、初めて対話した。爆豪が「俺を見下してるような俯瞰する目に腹が立つ」と言っている一方、出久は「君のすごさが鮮烈だったから君を追いかけてきた」と話す。二人の立ち位置に関する認識には奇妙なずれがあった。出久の目では、スタート位置に著しい違いこそあれ、自分と爆豪が同じ道を走っていると考えている。しかし爆豪の感覚では、「遥か後ろを走っていると思っていたやつが自分を俯瞰していた」、つまり出久の位置は上空=自分より高次なのである。爆豪は聡明だ。だからこそ「正しさ」に自分が焼かれている感覚を冷静に感じ取った。爆豪が持ち出した「正しさ」とはオールマイトという秩序に照らした正当性である。爆豪は知っている、自分が世間からは攻撃的で粗暴だと思われていること、その視線がヒーローの資質に対する疑いと極めて近いこと。そして、他者に優越しようとする己の衝動が、誰に何を言われようと「もう曲げられない」純粋な憧れであることを。だからこそ苦しい。一時代の秩序を一人で背負ったオールマイトと、彼に認められて後継者になった幼馴染。この二人の師弟関係が今後のヒーロー社会の根幹だとするなら、自分は出久に「存在ごと」負けたということではないか。彼は自分の根幹を疑って悩む。

  ここで思い出す。神野事件での一幕で、爆豪はヴィランから勧誘を受けた。原初ヒーローとヴィランを分けた基準=人気/市民からの信頼=に照らすならば、彼はヴィランになってもおかしくないのだ。死柄木が爆豪を勧誘するときに語った「なぜこの状況でヒーローばかりが責められているのか」「ここにいるのはみなヒーロー社会に縛られて苦しんだ人間である」という演説は、つまるところ「ヒーロー」と「ヴィラン」を分ける壁の危うさと恣意性に対する疑問であり、これらに無責任に身を委ねて平和を「消費」する社会への怒りでもあった。そして死柄木は、爆豪がこれらに共感してくれると考えたのである。

 確かにこれまで爆豪は「個性」と「ヒーロー」をめぐる政治的評価に翻弄され続けてきた。「ヒーロー向きの『いい』個性ね」と言われて誉めそやされ、彼自身を見つめた人はごく少ないままだった。自分の信念に従って行動すれば拘束を受け、世間では「凶暴だからヴィランになってしまうかも」と「判断」された。

  それでも彼は屈服しない。彼が出した答えは「全部俺のものにして上へいく」という一言に集約されている。幼馴染が初めて対話した夜、オールマイトは爆豪に謝罪するが、爆豪は「今更……」と抵抗感を示し、彼に頭を撫でられても払い除けた。爆豪は「君も少年なのに」と「守られるべき子供と守るべき大人」の立場から気遣われたかったわけではなかった。オールマイトと対等に戦って彼の上に立つつもりだったのだ。それが立ちはだかるものをねじふせたいという衝動と「オールマイトの勝つ姿への憧れ」を根本に抱いて生きてきた爆豪の「道」だった。オールマイトが秩序になっているなら、オールマイトになるのではなくオールマイトそのものを超えたい。彼は秩序に苦しんでいたわけではない。秩序に翻弄されるぐらい、爆豪にとってはただ圧倒すればいいだけのわずかなハンデなのだ。全部超える。ねじふせる。「プルスウルトラ」という標語通り、爆豪もまた「超えていく」パワーの持ち主だった。だからこそ、あの場面で初めて幼馴染が「まっとうにライバルっぽく」なったのは、爆豪が「オールマイトを超える」という目標の対象として後継者である出久を受け入れたことに他ならない。オールマイトに選ばれなかったこと、自分がまだ守られてしまうほど弱いこと。爆豪は他者に接してそれらを認識し、受け入れた上で全部超える。爆豪は自分にはそれができると信じているから、「やることは変わらない」。

 

 

(4)総括

 以上、まとまりなく目についたことを書き上げてきた。「読めばわかることしか書いてない」と思う方も「拡大解釈だ」と違和感を感じる方もいることかと思うが、一ファンの読解としてご容赦いただきたい。私がこの作品を愛読するのは、多角的に社会を描く姿勢が好きだからだ。「ヒーローアカデミア」は、子供たちがヒーローという概念を教育と経験で身に付けていく場所である。彼らが社会の危うさ、自明でないものの上に立ち、これからどんな道を選ぶのか、今後も丁寧に読んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

君は「国立奥多摩美術館」を知っているか

話は一昨年にさかのぼる。

当時私は「サウダーヂ」という映画が見たくてたまらなかった。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 山梨を舞台に土方の青年たちを描いた凄まじい映画なのだが(感想はリンク参照)、この映画の製作者であるグループ「空族」は方針として作品のDVD化をしておらず、見るには劇場で放映される機会を待つしかない。いやいやいやいやなる早で見たい。都内のどこかで見られないものか。困っていたところに、フォロワーの人から「国立奥多摩美術館というところでリバイバル上映をやるらしいですよ」という情報がもたらされた。これは行くっきゃない。行くぞ!

 

そしてたどり着いたのが、青梅だった。

 


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……いや、これ、どこ?

青梅市自体来たことがなかった。『怪談レストラン』のどれかに昔の青梅駅を舞台にした話があって、確か乗り過ごした電車の終着駅として青梅が出てくる。そのせいで青梅はなんとなく「最後に行き着く場所」のような気がしていたんだけど(青梅の人本当にすみません)、実際たどり着いてみると驚くほど緑が豊かで山に囲まれた場所だった。駅には「昭和の町青梅へようこそ」といった「昭和っぽさ」を売りにするキャッチコピーが貼り出されていて、レトロな映画の看板が飾られている。この時点で結構「おお、だいぶ遠くまで来たな」という印象だった(本当にすみません)。

しかし青梅には「その先」があったのである。(本当にすみません)


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軍畑。これが今回の目的、「国立奥多摩美術館」の最寄駅である。回りは山、遠くには霧がたちのぼっている。

たどり着いて腰が抜けた。改札が、ねえ。


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そこにあるのは入出場のパネルだけである。Suicaをチャージせねばならないのだが、なぜか券売機は1000円札しか対応しておらず、突っ込んだ5000円が「この紙幣はご利用になれません」というアナウンスとともに戻ってきてしまう。

そしてそれを聞いた子供が「ご利用になれません!!!!!!!」と叫んで私の横を走り去っていった。え?

そう、なぜか駅前に人が溜まっている。若い男性が自転車を停めて輪になって座り込み、「今日あっちゃんなんでいねえの?」と話し合っている。あっちゃんって誰だよ。私がおろおろする様子に「なんだこいつ」と言いたげな視線を投げてくる。気まずい。駅にやってきただけで気まずい思いをしたのは初めてだ。

とりあえずチャージしないと改札を通過できない。軍畑無人駅である。呼び出しを押すと青梅駅の駅員さんにつながった。「今手持ちが5000円札のみなんですが……」と言うと、「両替できる予定があるなら、今はそのまま出てしまってください。帰りに乗るときチャージをやり直して、出場のほうをタッチしてからもう一度入場をタッチしてもらえれば大丈夫です」と教えてくれた。「両替できる予定」。すごい。確かにGoogleマップを見ても民家ばかりで、名前が掲載されている建物がほとんどないのだ。

マジ?ここ?本当にここに国立美術館があるのか?

とりあえず歩き始めた。すごい。怖い。

 
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少し歩くと、周囲の風景はざっくり三つの言葉で言い表せることに気づく。「緑」「川」「道路」である。家もぽつぽつあるが、もれなく壁に蔦が這っているのでだいたい緑だ。道路には車線と歩道を分けるものがなく、車を気にしながら端っこを歩いたが、そもそも車も十数分歩いて数台しか通らなかった。川は水の流れが激しいようで、あちこちでごうごうと唸っている。マジで人通りは皆無だった。パンデミック以後の世界を描いた映画を撮るならここだな、と思った。

 

少し迷ったが、国立奥多摩美術館にようやくたどり着いた。壁に建物の名前がでっかく掲げられているのでわかりやすい。中に入った。


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めちゃくちゃ驚かれた。

入った瞬間、入り口にいた女性に「え!?どうして来たんですか!!??」と言われたことを鮮烈に覚えている。どうしてって……え!?

「あ、多摩美の学生さんですか!?」

違う。しかしその第一声と第二声によりこの施設が「めったに人は来ないし、来てもかなりの目的を持って勉強のために来る美大生である」ということがなんとなくわかってしまった。映画を見たくて来ました、というと、ああそうですか……と言われて受付に案内してくれた。館長らしい男性からチケットを購入する。館長もなんだかやばい。館長が着ているのはレコードのジャケットでしか見たことがないシルエットの派手なスーツで、これが彼の若さとミスマッチを起こし、結局何歳なのかよくわからなくなっている。そこでおもむろに目の前に何かの紙とボールペンを出された。

「あの、足場が悪いところがあるので、そこで転んでも自己責任ですという書類にサインしてもらっていいですか」

そんなに悪いの!!??

 「あと、今◯◯くんっていう、うちのアーティストが『ガロ』でデビューしたので、その原画展をやっています、よかったら見てください」

振り返ると、難解なイラストが壁を埋め尽くしていた。お、おう……。

これは、やばい。この時点で私は「これは何かのネタになる」と思っていた。勇気を振り絞って質問を投げる。

「すみません、ここ、本当に国立なんですか?」

「え〜〜〜……と……少なくとも日本国の国立ではないですね」

でしょうね。

(ただ信じてほしいのだけど、私はここで質問するまでもしかしたら本当に国立なのかもしれないと半分ぐらいは本気で思っていた。だって国立だよ。国立じゃないものが国立を名乗っているところを、私はこれまで見たことがなかったのである)

そこで隣にいた男性が「これそういう設定だったんすかw」と会話に入ってくる。「そんな裏設定あったんですか」「いやそういうのはないけど」という話から察するに、別に空想国家計画から発生した施設ではないらしい。そして館長は話を続けた。

「あの、ここ、国立って言ってるけど国立じゃないし、奥多摩って言ってるけどここ奥多摩じゃないし、ついでに美術館でもないんですよね」

じゃあ何!!!!!!?????????????????????

「では、上映は大宇宙スクリーンで行いますので」

大宇宙スクリーン??????????????????????????

 
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これはやべえ。

 

 
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上映までの間、建物を見て回った。館長が言っていた通り、美術館ではなく共同のアトリエと言った方が的確である。まず入ったところにロビー(写真上)があり、その奥に作業場であるガレージ、さらにその奥にスクリーン小屋があった。足場はびっくりするほど悪いわけではないが、そこかしこに製作中の作品や道具類が散らばっている。トイレは外にあり、通路が横にならないと進めないほど狭く、しかも自分でバケツで水を汲んで一回ずつタンクに水を入れないと流せないシステムだった。すごい。

ロビーではカップ麺や飲み物が売られていた。今回の映画の上映に合わせて、館長が奮発してポップコーンマシンを導入したそうな。なんかこういう風景見たことある気がするなと思ったが、おそらく幼少期によく親に連れられて怪しい祭りでエスニック系の洋服を売っていた記憶のせいだろう。薄暗いビルの間に屋台が並び、そこでナンを買ってもらって食べた思い出が蘇る。まあそれはどうでもいいことだ。しかし周囲にたむろしている人々は皆関係者のようだ。マジでアウェイか? いや敵じゃないんだけど。

 

大宇宙スクリーンは、まあ、大宇宙……大宇宙……大宇宙か?という見た目をしていた。中に入るとちょっと面白い。椅子のバリエーションがすごいのだ。パイプ椅子、キャンプ椅子、ソファ、車椅子まである。かわいい。ちょっと迷って車椅子の隣に陣取った記憶がある。この段差も手作りなのだろう。新しい木の匂いがした。


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この日は、「空族」の映画を一挙上映し、途中途中でトークショーを挟むというイベントだった。私はそのうち、トークショーと「サウダーヂ」が見られる時間を狙ってスクリーンの前に座ったのである。しかし製作者のトークショーつきだというのに、客は私以外三、四人しかいなかった。 まあこうも遠くちゃな……。この「国立奥多摩美術館」という謎空間に圧倒されていたせいもあり、このトークの内容は全然覚えていない。ただ館長らここを作った人達はだいぶ借金をしたという話、こういうアーティストが自由に作品作りや発表をできる場を維持していってほしいという空族の脚本家の方のコメントは覚えている。

 

作品の内容は、めちゃくちゃ面白かった。ぼろぼろに泣いた。

しかし……大宇宙スクリーンには一つ問題があった。壁がめちゃくちゃ薄いのだ。「この映画やたら雨のSE多いな」と思っていたが、途中からそれが外で鳴り響く川の音だと気付いた。「サウダーヂ」は山梨弁が多く出てくるのだが、川の音とも相まってセリフ若干聞き取りづらい。ただ、定員30人ちょっとのこの手作りの映画館で、できる限りよい設備を準備しようという姿勢だけはビンビンに伝わってきた。映像に関しては、とても見やすく、美しかった。

 

スクリーンを出ると、ガレージの外が真っ暗だった。確か九時台だったと思うが、とにかく周囲に明かりがないのだ。急いで帰らねばならない。ロビーへ戻ると、軽食売り場の店番に立っていたお兄さんが、見知らぬ人が歩いてきたことに驚いたのか、私をとっさに呼び止めた。

「あの……ポトフ食べていきませんか!??」

「いらないです!!」

こうして私は国立奥多摩美術館をあとにした。

 

 

帰り道が本当に怖かった。暗い。暗すぎる。しかも行きも迷ったというのに、帰りの景色はすっかり夜で、昼とは様変わりしている。人通りは相変わらずゼロ。迷っても尋ねられる人はいない。これ死ぬんじゃないかな? あまりの恐怖にでかい声で歌を歌いながら歩いていた。YUKIの「Home Sweet Home」。無意識だったが、無事に帰りてえ!!!!!!!!!!という気持ちが爆裂した選曲だった。

ようやくたどり着いた駅で、私はSuicaをチャージし、「出場」をタッチしてから「入場」をタッチして、行きのぶんを清算した。駅舎のホームには先ほど一緒に「サウダーヂ」を見ていた数人だけが立っていた。

 

「国立奥多摩美術館」がなんだったのか、私にはよく分からない。しかし、国立でもなく奥多摩にあるわけでもなく美術館ですらない謎の空間があの山の中に佇んでいるということが、意味もなく頼もしく、なんとなく嬉しいのである。

 

ちなみに、その後渋谷の映画館で「サウダーヂ」をもう一回見た。めちゃくちゃ聞き取りやすかったが、新しい木の匂いは、しなかった。

 

 

 

生きるのが少し楽になるBLレビュー

生きているとしばしば自分が許せなくなることがある。そういう時はとてもつらい。何かをしていても落ち着かない。自分はこれでいいのか、生きていてもいいのか。考え出しても答えが出るわけがない、そもそも問う意味もないような質問にとらわれてしんどい時、あなたを助けるのは素敵なBLかもしれない。以下に紹介するのは、私自身が「救われた」と思ったBLである。眠れない夜、早く起きすぎた朝、あるいは気だるい午後でも、ぜひ一度手にとってみてほしい。これらの作品が示す結末に、「この世にはこういう救いもある」と思えたなら、生きづらい気持ちはきっと少し和らぐ。

 

 本郷地下『世田谷シンクロニシティ

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

 

  「好き」という気持ちと「セックスしたい」という気持ちは、当然のように同じ線の上にあるものとして語られてきた。Aの次はB、1の次は2、付き合ったんだからセックス……世間にはそういう「当然の順序」がどっしりと鎮座する。「当然」とは何だろう? そこに従えない人間は、どうやって生きていけばいいんだろう?

 

『世田谷シンクロ二シティ』の主人公・大学生の高史は、恋愛として好きになるのは女性、セックスしたいと思うのは男性、という乖離に悩み続けている。舞さんという年上の彼女がいるが、セックスはしていない。それでもいいと言ってはくれているものの、彼女は明らかに体の関係を望んでおり、高史はそこに罪悪感を感じ続けている。

高史の人生を変えることになるのが、ゲイの同級生・深町との出会いだった。深町はゲイであることがばれたせいで実家とほとんど絶縁状態にあり、故郷の幼馴染に不毛な恋心を抱えたまま暮らしていた。

ひょんなことから数ヶ月の間同居することになった二人は、やがてお互いの「人にわかってもらえない」悩みを少しずつ打ち明けるようになる。

 

 恋愛的指向と性的指向のズレについて取り扱ったBLは、私はこの作品以外には見たことがない。ゲイやレズビアントランスジェンダーに関しては、近年メディアでも少しずつ取り上げられるようになってきたが、それ以外の「当然の順序」からこぼれた人たちについて取り上げたこと自体、一つの新しい功績だと言えるだろう。

セクシュアリティに「当たり前」なんて考え方はいらない。毎日変わったっていいし全員違っていていい。しかし世の中はまだ変わっておらず、テレビをつければ女性タレントが「好きなタイプはどんな男性ですか」と聞かれているし、書類一枚書くにしても「男・女」のどちらかを選ばなければいけない。どうしてこんなに決めなくてはいけないんだろう。「男」あるいは「女」に丸をつけるたびに、自分の中の何かが「不適切」なものとして削られていくような気持ちを味わったことがある人は少なくないはずだ。あなたはあなた、それだけでいいと、誰だって言われたい。でも世間はそう言ってくれない。

 世間の「当然」に苦しむ全ての人を、『世田谷シンクロニシティ』は暖かく受け止め、そのままでいいのだと断言してくれる。ラストシーンの深町のセリフを引用しよう。

「自分のこと 無理に決めなくていい

変わらなくていい 今はそれでいい

でももしいつか変わったとしても いいんだ

誰にも責められることじゃない 堂々としていろ」*1

変わらなくていい、そのままでいい。全ての人の生が、二人の大学生のささやかなラブストーリーを通じて許される。 世間と自分の葛藤を丁寧に描く、画期的な名作だ。

 

 一穂ミチ『off you go』

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

 

 

結婚という制度が多くの人から求められている理由のうちの一つが、「ずっと一緒にいる保証が欲しい」ということだ。「永遠の愛」という言葉に象徴されるように、もう変わらない、ずっとこの人が自分のパートナーであり続けると社会に宣言することで得られる何かが、確かにある。

『off you go』に登場する主要人物は三人だ。BLなら普通二人ではないのかと言われるかもしれないが、三人である。

新聞社の編集室に勤める静良時とその病弱な妹・十和子は、良時と同じ新聞社の外報に勤める佐伯密と幼いころから親しく付き合っている。幼少の十和子が密と同じ病室に入院していたことから始まった縁だったが交流は長く続き、いつしか三人の絆はこの上なく大切なものになっていた。

しかし、三人は大人になり、新たな壁に直面する。男女三人が「ずっと一緒にいる」ためにはどうすればいいのだろう? 密は当然のように十和子にプロポーズし、十和子はそれを受け入れた。断る理由はなかった。男と女が結婚し、女の兄がそれを祝福する、という構図が、社会においては「当然の順序」だからだ。「かけがえのない三人」が、「兄・妹・妹の夫」に変わり、良時の、十和子の、そして密の、口に出せない感情がタイムカプセルのように埋められた。

物語は、十和子から切り出された唐突な離婚により、この感情のタイムカプセルが二十年ぶりに掘り起こされる場面で幕が上がる。「兄・妹・妹の夫」は、「かけがえのない三人」に戻り、もう一度関係の構築をやり直すことになるのだ。

一見、社会のせいで結ばれることができなかった二人の男が、女の後押しで結ばれる悲喜劇のように聞こえるかもしれないが、それは違う。彼らは終始幸福だ。三人はお互いがお互いを深く愛していて、ただ性欲も含めた恋愛的なつながりを求めていたのは、結婚した密と十和子ではなく、良時と密だったのだ。ただそれだけのことなのだ。

本作は、愛の繋がりがしなやかに姿を変える様子を我々に見せてくれる。タイトルの「off you go」、つまり「行っちまえ」が、気に食わない相手を追い払う言葉ではなく自分の手から解き放って相手の思いを何よりも尊重しようとする姿勢であるように、愛ははたから見てどのような姿をしていようと、愛だと言うなら愛なのだ。本作は「形」によって息苦しい思いをする誰かの呼吸をそっとやわらげる、絆のBLである。

 

 紀伊カンナ『雪の下のクオリア

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

 

 

 ままならない恋愛と生活をそのまま・しかしぬくもりと明るさを保って切り取ることにかけて、紀伊カンナの右に出る者はいないのではないか。ご飯を食べる。人と話す。自分の布団で眠る。そういうことの繰り返しで時間が流れるという実感が、いつか人を暖かい場所へ導くのだと、言葉にせずとも伝わってくる。そういうもんかな、そういうもんだよと、苦しい現実を目の前にした時にそう言って肩につもった雪を優しく払われるような、現実のある種のむごさと優しさの同居する一冊だ。

舞台は分厚い雪に覆われた北国(おそらく北海道)である。植物学の研究室で学ぶ苦学生の明夫は、ワンナイトラブだけを繰り返すゲイの後輩・大橋海に懐かれて辟易していた。かつて好きだった人に裏切られたことで一人の人を愛し続けることをやめてしまった海と、蒸発した父親のことを引きずりながら「男も女も興味ない」と断言する明夫。取っている行動は真逆でも、二人は愛する人が自分から離れて行ってしまった過去を忘れられずにいる。

あっさりと言ってしまえば、海がかつて好きだった人とやり直すこともないし、明夫の親が戻ってきて家族が再生することもない。もっと言えば二人が分かりやすい形で結ばれる物語でもない。それでも二人は、お互いにお互いを愛しく思い、優しくしたいと思う。長い冬が明けて春になり、雪の下にあったものがゆっくりと顔を出す。

明けない夜はない、止まない雨はないという言説も、それらの否定も今までさんざん語られてきた。でも夜も雨も一日単位の話ではないか。苦痛は大抵日々だ。今日も何もできなかったと思う日がずっと続くこと、不愉快な人間関係の渦中に身を投じざるを得ないこと、いつまで経っても変わらないことそのものが、毒素のように体に溜まって折重なり、私たちの首を絞める。今作がやんわりと示すのは、不毛な日常を繰り返す人もいつか何か明るい場所に届くのではないかという春の予感であり、その日常自体への許しなのである。

 

 

 

*1:本郷地下『世田谷シンクロニシティ集英社、2017年。199〜200ページ。

左門くんはサモナーが終わってしまった

※ネタバレ注意

 

 

 

左門くんはサモナー」が終わってしまった。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

 沼駿「左門くんはサモナー」は、ジャンプで連載されていたコメディ漫画だ。こういう記事を書くぐらいには、私はこの漫画に強い思い入れを持っていて、ジャンプの読者アンケートでは毎週一位に指定していた。

終わる兆候は前から少しずつ現れていた。やけに核心に近づいた話が増えたり、伏線がみるみるうちに回収されていったりする中で、毎週もしかしてこれは、いやそんなことはない、とずっと気をもんでいた。何より、順位が芳しくなかった。

 

 終わってしまった。正直、もっとこの作品を読んでいたかった。唯一の慰めは、最終回が白眉の仕上がりであったことである。

 

 上に挙げた記事にも書いた通り、左門くんはサモナーの主人公はひねくれていて卑屈で友達がいない「カス虫」左門くんだ。そして彼の「相棒」は、その優しさから「仏」と呼ばれる天使ヶ原さんである。それだけ聞くと善悪二元論で塗り分けてしまえそうなキャラクター設定に見えるが、そう見えるのはお互いの解像度が低いからだ。物語が進むにつれ、二人はお互いを知り、経験を共有し、どんな人間なのかを知っていく。人が白黒ぱっきりと割るわけではないことを理解してゆく。(詳しくは上の記事を読んでほしい)

 

 最終回周辺では怒涛の勢いで物語が回収されていった。キーポイントの一つが「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である!」という天使ヶ原さんのモノローグだが、これは実は最終話では繰り返されない。最終話の一話手前で反復され、最終話は左門くんと天使ヶ原さんが二人で「負けたら地獄に墜とされる」という無謀な戦争へ旅立つ場面で終わっている。

二人はきっとこのあと負ける。そして、地獄に堕ちる。

それがあまりにもエモーショナルで悲しくて、でも明るくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。

 

 

 左門くんは高校を卒業してからさらにストイックに修行に励み、その結果地獄の三大支配者に目をつけられた。戦いに勝たねば地獄に堕ちることになる。その戦争を控えたタイミングで左門くんが算文町に戻ってきたのは、おそらく敗北を視野に入れたからだろう。死を迎える可能性を考えて高校時代の思い出の場所にやってきた左門くんは、天使ヶ原さんと偶然再会する。天使ヶ原さんからかつての友人たちの近況を聞く左門くんは、以前より角が取れた印象だ。

「僕もいよいよ地獄に墜とされるらしい」

左門くんが天使ヶ原さんにそう告げると、天使ヶ原さんは軽々と「私も一緒に行ってあげるよ」と微笑む。「心中じゃない」と補足するが、人の世の理が悪魔相手に通じるわけではなく、失敗すれば天使ヶ原さんも巻き添えを食うだろう。それでも彼女は、これからどうなったって別にいいよ、とでも言うように、左門くんの戦争に同行すると申し出るのだ。「善は急げだよ」天使ヶ原さんは悪魔との戦争についてそう言う。これから始まるのは左門くんの身勝手な生き急ぎが招いた自滅の戦争なのに、天使ヶ原さんからすれば「左門くんの味方になってやる」ことは「善」なのだ。それを聞いて左門くんは、初めて天使ヶ原さんを褒める。「君って、悪い女だな」--ぱっと見では悪口にしか聞こえないが、これは確かに褒め言葉なのだ。今までずっと「いい子」扱いしかされてこなかった天使ヶ原さんが、「悪い女」と呼ばれて喜んでいるシーンがある。左門くんはそれを覚えていて、わざわざ天使ヶ原さんをそう称するのだ。左門くんの人生のうち、天使ヶ原さんほど多くの経験を共有した相手はいなかった。二人の間だけで伝わる特別な意味が、この一言には込められている。

 

 そして二人は地獄へ赴く。きっと二人は負けて地獄へ堕ちる。なぜなら「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である」と最初から断言されているから。

 

 自分の道を各々見つける友人たちの姿が示された。出会ったときは最悪の仲だった二人の間に、唯一無二の特別な関係が築かれたこともはっきりと示された。そして二人は、人には触れない場所へ、誰にも知られないうちに消えていく。絶望ではなく、信頼と好意によって。

それがどうしようもなく切ないのだ。

 

 左門くんと天使ヶ原さんの関係は、友達でも恋人でもない。言葉にできない、「白黒つけられない」ものだ。そんな二人が姿を消すことは、きっとハッピーエンドでもバッドエンドでもない。終わりが「良い」か「悪い」か、白黒意味付けする必要はない。

 

 「左門くんはサモナー」は本当に良い漫画だった。面白かった。ここで終わってしまうのは惜しいと心から思う。ここまで描いてくれた沼駿先生に感謝と慰労の気持しかない。また沼駿先生の新作が読みたいともちろん心から思うが、今はただ、左門くんはサモナーという名作についてじっと感傷に浸りたい。

 

 

 

プリパラ劇中歌レビュー(2) 私は私の道を行く

 

rinriko-web.hatenablog.com

  前回(といっても1年半前)に書いた記事がわりと好評であることに今更気付かされたため、続きを執筆してみようという気になった。

プリパラの劇中歌のクオリティは一期から極めて高いものだったが、前回から1年半の時を経て素晴らしい楽曲がさらに多数生まれてきている。今回もいかにプリパラの世界を彩るアイドルソングがウェルメイドなものか、紹介していきたい。

 

 

ドロシー&レオナ・ウェスト「Twin mirror♥compact」

 歌詞はこちら

 前回の記事でも述べた通り、一人称が「僕」の女の子・ドロシーと、一人称が「私」の女装少年・レオナは、ドレッシングパフェで活動する極めて仲のいい双子である。一期では「僕とレオナは二人で一人だから」と言ってらぁらとみれぃのチームに入ろうとするなど、お互いをお互いの半身と見なしてきたことが分かる。

そんな二人にも、転機が訪れた。二期の終盤、レオナは紫京院ひびき率いる天才チームへの誘いを受け、ドロシーと初めて異なるグループに属することを自ら選んだのだ。

今まで何でも一緒にやってきて、何でも共有してきた双子が、ついに違う場所に立つ。その痛みは我々には想像もつかないほど大きく、衝撃的だったことだろう。そのため、二人はどうしても儀式を必要とした。それがこの「Twin mirror♥compact」だったのである。

Twin mirror♥compact ハートとハートがchu!

少し怖いけどバイバイ(見つめてバイバイ)

Twin mirror 覗き込んで 涙の跡ふいて

離れていたって『LO♥VE』繋がる!

twin mirror 開いたら 勇気を交換こ

あのね気持ちは一緒さ(だから大丈夫)

一人になるのは 悲しいことじゃない

おニューな二人で また はしゃごう! 

  鏡のついたコンパクトは、開けば二枚貝のように片方ずつが違うものを映す。しかし結局は一つのコンパクトなのだ。お互い違う場所で涙の跡を映したとしても、鏡の向こうでは愛で繋がっている。

 双子は離れたことがなかった。だからこそ、「離れていても繋がっている」ことをお互い再確認しなければならなかったのだ。そしてそれは、二人にとってまたとない飛躍の機会でもあった。

似てるようで似てないheart 鏡に映す未来

ほらね 僕は僕 私は私で

 この歌詞を歌った時、ドロシーとレオナは「二人で一人」だっただろうか。きっと違う。お互いがもっと素晴らしいアイドルになるために、むしろ「一人が二人」になったのだ。意図的に同じものとして生きてきた二人は、それを一度やめ、「僕は僕」「私は私」として「似てるようで似てない」 ことを言葉にした。すさまじい勇気だと思う。でもその別れの痛みは成長痛だ。再び同じ場所へ戻ってきた時のドロシーとレオナは、傷だらけの強靭な身体で、世界一軽やかに踊る。

 

 

ちゃん子「Just My Chance Call」

 歌詞のリンクを貼りたいのだが、この音源は昨年春の映画のDVD特典として収録されており、歌詞サイトに掲載がない。残念だが各自DVDを買うなり借りるなりで鑑賞してほしい。

そういう歌詞のリンクを貼れない曲でありながらここで紹介せざるを得なかったのは、この曲がそれだけ伝説的だからである。曲を歌う「ちゃん子」は、その名の通りの女の子だ。今の美醜の基準で言うなら、いわゆる「アイドルにはなれない」容姿の持ち主である。実際作中では、クールで天才肌のキャラクター・そふぃの親衛隊として登場している。

しかし、しかしだ。プリパラの合言葉は「み〜んなトモダチ! み〜んなアイドル!!」なのである。みんなアイドルなのだ。そう、ちゃん子はアイドルだった。誰にも似ていない、誰も真似できない圧巻のパフォーマンスを携えて、ステージに上がる。ラストのサビを引用しよう。

Nobody beats the me! 譲れないのは glamorousなChance call!

Fight Back 弱気 教えてあげる 誰が最強か

死ぬ気でかかってこい

勝つ気でかかってこい

暴れて! 私の愛! Come on!!

 この曲が披露されたのは、映画でアメリカの地下ファイトクラブに送られてしまったそふぃ親衛隊の面々が、「勝ち抜かなければ一生ここから出られない」と言われ、全員の命運が託されたちゃん子が女レスラーとの戦いに挑む……という、女児アニメにしてはハードコアすぎる展開の最中であった。

 サビだけで雑魚はふっとびそうな圧倒的パワーがある。なんたって「教えてあげる 誰が最強か」「死ぬ気でかかってこい 勝つ気でかかってこい」が連続して突きつけられるのだ。そこにあるのは力と力のぶつかり合いだが、同時にそれは暴れだしたら止まらない「私の愛」であり、その「愛」とはまぎれもなくアイドルのアイなのだ。

 そして「Nobody beats the me!」である。ただのmeではない。「the me」なのだ。唯一無二の私を生きる、こんなこと私にしかできない、他のヒョロいアイドルどもとは一味ちげえんだ。そういう気概が、たった一単語でビンビンに伝わって来る。

 「太っている」ことは「美しくない」と、誰が決めたのだろうか? そんなものは単なる文化の刷り込みだ。だってちゃん子はこんなにも美しい。仲間のために敵を粉砕し、勝利のリズムで四股を踏みながらグラマラスに踊り続ける、彼女ほどかっこいいアイドルはいない。プリパラは、あらゆる価値観を受け入れるのと同時に、たくさんの新しい美を生み出す場所なのである。それがきっと、今日も誰かを救っているはずだ。

 

UCCHARI BIG-BANGS「愛ドルを取り戻せ!」

 歌詞はこちら

三期最大の衝撃であった、うっちゃりビッグバンズの新曲である。アイドルのアイは、つまり愛なのだ。うっちゃりとは土俵際から巻き返す相撲の逆転技のことで、まさに神アイドルグランプリの敗者復活枠からよじのぼってきた気概が込められている。

まずメンバーが濃い。前述のちゃん子に加え、エキセントリックな天才デザイナー・北条コスモと、コスモの学生時代からの親友にしてプリパラ一はみ出た魅力を持つ美術教師・黄木あじみがチームになったのだ。この三人からドロップされたのがメタルだなんて、聞く前にお腹いっぱいである。

歌詞は極めて感覚的だ。韻を織り交ぜながら語呂合わせと勢いで語られる力強いサビの中に、あじみの際限ない美術ダジャレが振りかけられる。その中で語られるのは、「私は私」という意思なのだ。

翼の折れたヒロインたち

傷だらけのHeart & soul

それでも空を目指すんでしょ

誰にも似てない自分だけの青空

時代の風を揺らすんなら

不毛の大地に 咲かせようよアイデンティティ

  普通とはなんだろう。きっとそんな価値基準に意味はない。うっちゃりビッグバンズが目指すのはいつだってオリジナルだ。「誰にも似てない自分だけの青空」は、分厚い雲を自ら切り開いた先にある。

 だからこそ三人は世紀末の空へ飛翔するメイキングドラマを作ったのだろう。時代の風が自分たちと違う色をしていて、その流れがめちゃくちゃ強かったとしても、それをぶち抜いて揺らして個性を開花させる。アイドルになるために、愛以外何も必要ではない。土俵際はむしろチャンス。うっちゃりで世界が変わるなら、うっちゃりするしかないのだ。

  

 

北条そふぃ「Red Flash Revolution」

歌詞はこちら

映画「プリパラ み~~んなでかがやけ!キラリンスターライブ」でお披露目になった北条そふぃのソロ曲である。

この映画と北条そふぃというアイドルについて考えるとき、ひとつの騒動について触れねばならない。それは二期のエンディング曲「胸キュンラブソング」のとあるカットについて、BPO放送倫理・番組向上機構)から批判が寄せられたことである。その「とあるカット」こそ、そふぃが肩ひものはだけたランジェリーのようなワンピースをまとった絵だった。

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批判が来たのち、そのカットはなんとオーバーオールの肩ひもをはだけた漁師ルックのそふぃに差し替えられた。「肩ひもがはだけている」ことを批判されたので、逆にそこだけは貫き通したプリパラの「抵抗」は、極めて鮮烈に映った。

これは公式になんのソースもないので「私はそう受け取った」というだけの話だが、おそらくプリパラ製作サイドはこの事件について相当根に持っているのだと思う。確信に至ったのは、映画でそふぃが背中や腹がばっくりと開いた極めてセクシーなドレス姿を披露したことだ。ステージで踊るときには違う衣装に着替えるのに、わざわざステージに登場するシーンで挑発的なまでにセクシーなドレスをまとうというのは、明らかに地上波でやって批判されたことを映画館でやり返してやる、という強い反抗心だった。(さらに映画では白い下着風のワンピースを着たちゃん子がセクシーに椅子にもたれるシーンが挿入される。これもまた「性」を遠ざける人々への挑戦なのだと思う)

前置きが長くなった。妖艶な姿で現れたそふぃが歌い出すのがこちらの「Red flash revolution」である。音楽的なことは正直あまりわからないのだが、曲調はキューティーハニーのテーマ曲を思い出させる。そう、キューティーハニーと言えばセクシーな女の子が戦う古典的人気作品だ。プリパラはそふぃという美神を通じ、セクシーであることもまた女の子が選べる楽しい選択肢なのだと主張しているのではないか。

救ってあげるわ! 解放しちゃえ!

さあ、鳥籠なんてbreak out  革命のRed Flash

最後のこの一節には、プリパラという仕組みが何気ない顔で抱える巨大な許しが現れている気がしてならない。プリパラではなりたい姿になっていい。求めるものに手を伸ばすことが許されている。元々アイドル像に縛られてきたそふぃが、今度はせせこましい価値観に囚われる「小鳥ちゃんたち」を救うのだ。そういうプリパラの強さを見せつける、系譜を感じる一曲である。

 

南みれぃ「TRIal Heart~恋の違反チケット~」

歌詞はこちら

この曲は「南みれぃ」「弁護士みれぃ」「検事みれぃ」の三つに分岐したみれぃが歌唱するミュージカルめいたロックチューンだ。パラレルワールドでどうやら恋に落ちたらしい南みれぃをめぐり、二人の法の番人=みれぃが裁判で争う。アイドルに恋愛は許されるのか? 気持ちに嘘をつくのはよくないわ!と微笑む弁護士みれぃ、その主張には根拠がない!と畳み掛ける検事みれぃ。ライブシーンでは三人のみれぃが歌い踊る極めて不思議な光景が繰り広げられる。

ぶりっ子と呼ばれる質の人が嫌われるように、コミュニケーションに関しては「一元的であること」が重視される場合が多い。素直だとか腹を割って話すとか、「本物の自分を見せる」ということがそのまま相手への信頼を意味する状況は頻繁にやってくる。

 みれぃの分裂をめぐるストーリーには、一期の名エピソード「ぷりのままで」が極めて重要だ。アイドルとしてのみれぃは本当の自分ではないのではないか?と惑うみれぃは、最終的に「どちらも私なのだ」という結論を見つけることになる。

そう、全てみれぃなのだ。みれぃでいいのだ。彼女の心のやわい部分を暖かく認めて想いを遂げさせようとする弁護士みれぃも、ルールを守ることに至上の価値を認めて厳しく自律を迫る検事みれぃも、どちらもみれぃなのである。彼女は将来何になるのかまだ決めかねているし、異なる姿を行き来する。その揺らぎは素敵でポップで限りなく魅力的だ。ぶりっ子だとか本心じゃないとか、他人が想定する「本物」などに価値はない。

 

トリコロール「Neo Dimension GO!!」

歌詞はこちら

この曲を初めて劇場で聴いた時、度胆を抜かれた。トリコロールが「完成」してしまった、と思い、打ち震えたのである。

トリコロールのデビュー曲である「Mon Chou Chou」は確かに名曲であるが、時期の焦りやメイキングドラマの強引さも含め、トリコロールとしての「お披露目」であり「自己紹介」としての側面が大きかったように思う。それぞれの良いところを持ち寄って、自分たちを説明するイントロダクションだった。

ところが、Neo Dimension GO!!のトリコロールは、巡り合った劇場を完璧に支配してみせる「真骨頂」であり、まさに今までより次元が一つ上なのである。

その名はプリパイレーツ号 星より輝くBODY

唯一無二の海賊船 荒波を蹴散らし

遥か彼方 伸びるトリコロールライン

自由に生きるのが使命よ

NEO DIMENSION 生んで 広げて 進めGO!!

Neo Dimension GO!!は、並行宇宙のひびき・ファルル・ふわりが宇宙海賊の気概をダイナミックなハーモニーで歌い上げる一曲だ。思えばこの三人の関係は奇妙なものだった。トラウマを抱えながら自らのエゴでふわりを選びふわりを捨て、ファルルに憧れて肉体も捨てようとしたひびき、ひびきとの関係に苦しみながらもひびきを愛し抜き、強引な手段を使ってでもひびきが自分の触れられない領域へ去ろうとすることを阻止したふわり、そして二人の想いを暴力的なまでに受けながら微笑み続けるファルル。「嘘」と「本当」でねっとりと絡みついたこの三人がチームになれるとは、正直思わなかった。それでも三人は、愛によって三人でステージに立つことを選ぶに至った。

Mon Chou Chouでも繰り返し現れる言葉だが、もうこの三人に嘘も本当も関係ない。大事なのはトリコロールが「唯一無二」であることだけだ。過去に囚われるために使える時間などもはやない。全てを噛み締め、乗り越えながら、情熱のままに求めるものを追いかける自由さを手にいれたトリコロールの、最も完成された演劇。それがNeo Dimension GO!!なのだ。上演場所はこの世で最も広い場所がふさわしい。やはり、宇宙である。

 

 

今回はここまでで筆を置くことにする。現在シリーズ4期となる「アイドルタイムプリパラ」が放映中だが、個人的にはドレッシングパフェの新曲を心待ちにしている。この先もプリパラというコンテンツへ全面的な信頼を寄せ、追いかけていきたい所存だ。

映画「サウダーヂ」感想

※ラスト含めネタバレ満載ですのでご注意ください。

 

 小学生の頃、ルイス・サッカーの「穴」という小説が大好きだった。無実の罪でグリーン・レイク・キャンプという少年院に送られた主人公がえんえんと懲罰のために穴を掘り続ける話だ。死ぬほど好きだったはずなのにあとの展開は何も覚えていない。今読めばまた面白いのかもしれないけど、あの本は今手元にない。

 穴を掘ることが懲罰になるのは、穴の中で人間は孤独だからだ。自分は何をしているんだろうと思う。それでも掘れる限りは掘る。スコップを地面へ突き立てて土を掘り返してもまだ土がある。土があるなら、まだやることがある。

 

「地球のうらがわまで掘りまくれし!」

 これは映画「サウダーヂ」のキャッチコピーだ。「掘りまくれ!」ではなく「掘りまくれし!」。甲州弁である。映画のロゴを見ると、タイ語ポルトガル語で併記がされている。甲州弁、ポルトガル語タイ語、これらが飛び交う町・山梨県甲府が、物語の舞台となる。

この映画が、とにかく、今まで見た映画の中で一番面白かったので、今日はその話がしたい。

 

 あまり関係ない話、というか私の体感でしかないのだが、「何でもいいから何かが起これば自分の現状が打破されるのではないか」というほの暗い期待のようなものが、今の社会にはなんとなく存在していると思う。生前退位改元するんじゃないかとかゴジラで東京がめちゃくちゃになるとか、少なくとも私はそういう風景を見て高揚したし、自分の日常が打破されることに恐れと期待が同居している自覚があった。

一番嫌な形で「日常」が「打破」された東日本大震災から5年経って、また社会が嫌な方向にぐいぐい進んでいくのを見ている今、私が自分自身についてずっと考えているのも、偶然じゃないはずだ。私もまた、穴を掘っている。穴という巨大な空洞。

 

 「サウダーヂ」は群像劇で、主にスポットライトが当てられるのは土方の青年たちだ。パチンコ中毒の親と精神異常をきたした弟を抱えながら、HIP-HOPクルー「アーミービレッジ」の一員としてラッパーをやりつつ土方の仕事を始める青年・猛と、子供を望む妻をあしらいながら先の見えない暮らしを続ける土方の精司。そこに、ヒッピーぶって「ラブ&ピース」を広げたいと話す猛の元カノ・まひるや、ブラジル移民の一家に生まれて山梨でラップをしている青年・デニス、家族のために故郷のタイを離れてパブで働くハーフの女性・ミャオらの暮らしが絡んでいく。

 

 そこに漂うのは閉塞感である。ヤクザと政治家と肉体労働者と移民が同居する田舎町を、家族や仕事を背負って毎日歩いていく。家路は変わらないし、帰宅すれば同じ人がいる。不安定な暮らしという一定のリズムの中で、猛にも精司にも「寄る辺」はなかった。彼らは精神の柱という部分に空洞を抱えている。その穴はいつのまにか掘られていた。何かが変わりはしないかと、みんな期待している。

寄る辺がない人々はどうやって生きていけばいいのだろう?

 

 映画の内容を全部説明することは難しいので、田我流演じる猛について、説明して考えてみたい。

猛は、自分の暮らし向きが良くないのは全て外国人移民のせいだと信じ、ちゃちな論理で右翼を気取っている若者である。「大和魂を見せてやる」と意気込んでブラジル人移民のHIP-HOPクルーと対決しようとするが、ブラジル人たちは特にアーミービレッジのことを見ていない。言葉が通じていないのだ。

元カノのまひるは、「わたしはず〜っと、味方だよ」と言い、猛に東京行きを勧めた。しかしそのあとに続く言葉は、「わたし気づいたの。世界に敵なんかいないって」というヒッピーの薄っぺらすぎる一般化された愛の言葉だ。まひるもまた、ちゃちな物語に酔うしかない行き場のない女性だった。

いくら止めてもパチンコが止められない両親。怪しい言葉をぶつぶつつぶやいている右翼かぶれの弟。ヤクザからの勧誘。

猛は外国人を憎んでいる。敵さえいなければきっと日常が打破され、是正されるのだと考えて、怒りを貯める。

 

 映画は猛の顛末で終幕する。

自分の外国人への怒りを理解してくれないアーミービレッジの仲間たちに失望した猛は、「東京で音楽業界関係者の知り合いを紹介する」と言ったまひるを最後の希望と信じて彼女を探す。しかし、まひるはブラジル人男性と親密な仲だという噂を耳にし、よく確認もせずに猛はその希望も捨てた。そしてナイフを持って街に出、ブラジル人青年のデニスを刺してしまうのだ。

デニスを刺したあと、猛はアーミービレッジの溜まり場へ戻ってきて、笑いながらデニスを刺したことを伝える。弟の面倒を見てやってくれ。たまにでいいから。昔遊んでただろ、本当にたまにでいいんだ、頼むよ。あっけにとられて黙ってしまった仲間たちにそう最後に告げると、おもむろに携帯電話を取り出して、彼は自首をした。

パトカーに押し込まれながら、最後、猛は手錠をかけられた手を掲げる。

ついさっきまで絶望していたはずの仲間に向かって、笑顔で。

 

 こんなにキツイものが他にあるだろうか?

 この映画はほとんど全てがディスコミュニケーションでできている。全員が孤独な穴の中で土を掘りながらうめき声をあげる。声は聞こえても何を叫んでいるのかは分からない。点と点がずっと繋がらない。

ここではないどこかを夢想し、自分でない誰かを勝手に望み、ろくに話したことのない誰かを敵視する人々が、どうしようもなく辛い。そこまでどん底に落ちて全部が嫌になっても、まだ人を求めている!

猛が事件を起こしてもアーミービレッジの仲間に対してずっと笑顔でいるのは、刺したことがおかしかったからでも、楽しんで笑っているわけでもないのだ。ただ、赤ん坊が母親にするように、自分が笑えば相手も笑ってくれるんじゃないかと、誰かに好意を返して欲しい一心で笑うのだ。

猛は決して悪い人ではなかった。弟の支離滅裂な話を否定せずに聞いてやったし、親のパチンコ通いも必死に止めようとしたし、ヤクザになるのもダメなことだとちゃんとわかっていたのだ。最後だって、弟のことをよろしくと頼んで自首をした。それでも、彼を駆り立てるものは彼の凶行を止められなかった。

 

 どうして人間は人間の群れでなければ生きていけないんだろう。群れでないと生きられない生き物にするなら、なぜつらいことをつらいと感じる機能がついているのだろう。なんでこんなに愚かなんだろう。なんでこんなに辛くても死ぬのは怖いんだろう。なんでまだ人と話したいと思うんだろう?

 

 分からない。正解はない。これを極めて冷徹な俯瞰の目線で撮り切ったことが、もう、事件の域である。

 

 「地球のうらがわまで掘りまくれし!」

地球の裏まで掘ればブラジルにつながってるよ、ちょっと曲がったらタイだよ、こんなに簡単なんだ。

麻薬を吸いながら男がそう語る。今その瞬間に隣に住んでいるブラジル人やタイ人とはつながれないままなのに、穴を掘ったその先の新天地を夢想している。

 掘るしかないのだ。

 

 

 

以上が支離滅裂ながら私の「サウダーヂ」の感想である。語りきれない名シーンも、素晴らしい映像も、ここではお伝えしきれていない。私が書いたことはあくまでも作品のごくごく一部にすぎないことを明記しておく。

DVDになっていない作品なので、ぜひ機会があれば逃さずに足を運んで欲しい。

 

私が許せなかった国と体、あるいはPerfumeという祝福について

※2015/11/23にnoteに投稿した記事の移行版。内容改変なし

Perfumeワールドツアー3rdのドキュメンタリー「WE ARE PERFUME」を見た。
Perfumeとは、何だろう?
Perfumeの映画を見ながら、私は不思議と自分について考えていた。
先にいっておくけど、私はこういう自分とすばらしいアーティストを絡めてものを考えることに滅茶苦茶な羞恥を覚えている。自分で書きながら気持ちの悪い自己陶酔の一種にも見えている。それでもあえて書く。それを汲んで怒らずに読んでくれたら嬉しい。
わたしが今までの人生をとてもとても多目に見たとして、それでも受け入れられないものが二つある。国と体だ。
私は自分を国の中の人間だと知っているし、故郷が好きだし、その故郷は日本なんだけれど、日本という言葉を口にするとき、いつもぐじゅっと胸の奥にわだかまる何かを感じてきた。ナショナリズムへの嫌悪とか単純に今の国への憎しみとかそういう口に出せる言葉の外にも、それは微妙に広がっている。それがなんなのかは私にもわからない。
そして体。
体を動かして楽しかったことがない。
明治維新以降、少しずつ列島生まれの肉体のすべてが義務教育で統一規格を教えられるようになって、私ももちろん体の使い方を学校で教えられたけれど、私の体はそういうことに適しておらず、体育は常に低評価をくらい続けた。体はままならぬものだ。美しくもない、思うようにも動かない、そして持っている限り一定量の私に関する情報を勝手に開示し続けるこの肉体から、逃げられないことがつらい。
体に蓄積される努力でよじ登る生き方ができたことはきっと一度もない。全部その場しのぎだし、私は全部「やり過ごしている」。

そういうものを忌み、避けてきた私は、多分「胸の奥にわだかまる何か」と同じ色をしている。もとの形をなくして崩れている汚泥のぐしゅぐしゅ。
Perfumeはわたしの真逆だ。
自分のからだを子供の頃から鍛え上げ、努力をし、涙をのみ続けてやっとチャンスを得て成功した。ふわっとそこに現れた美ではない。しっかりと重ねた日付を我が物にしてきた、威厳ある体だ。
楽屋に飾られたライブ成功祈願の色紙には「日本のいいところを知ってもらえますように」とか、ライブ前のあーちゃんの叫び「大和魂みせちゃる!」とか、そういう普段の私ならざわっとくる言葉を、彼女たちはすっと体に通すように軽やかに使って見せる。(Perfumeがどう考えているかという話ではなくて、それを見た私のざわつきの程度の問題として。)それは彼女たちがジャパニーズ・ポップスの発信者として、何度も国境を越えてきたからだ。なんのてらいもなく、私たちはもっと高みへ上る!と宣言できる清々しさを持っているからだ。
美味しいものを口にしておいしいと言い、お客さんにあいさつされて笑顔で答え、事務所の会長に肩を触られても平然としている。目の前の相手に敏感に反応して求められる通りに応え、体を駆使して踊り、それを全て楽しむ……。

彼女たちには澱みがない。求められたことを理解し、喜んでそれに応え、全てを清らかに受け入れる。私が許せなかったものを軽々と抱くperfumeを、私の目が神々しく認めずにいられるわけがなかった。
エンディングでSTAR TRAINが流れ始める。「l don't want anything」というサビのフレーズが、全てを要約したと言えよう。
受け入れて喜ぶことを祝福と言うのなら、perfumeは水面に映った全ての人間を聖別する<香水>かもしれない。