「想像上の他者の人生」と向き合うということ

※昨年の日付で保存されていた文章が少し面白かったので公開

 

 

 

 ここ1年ほど、あるアーティストを好きになって追いかけ始めたのだが、時折どうしようもなくつらくなった。実在する人間にハマったことが本当に久しぶりで、生きている人間を「追う」ことの難しさに疲れてしまったのだ。

 生きているアーティストは、ファンと同じ時代に生まれ、リアルタイムで情報発信をし、ファンが息をしているこの一瞬一瞬を、違う場所で息をして暮らしている。ファンはライブ情報や時折発信される生活の話を追い、情報をかき集めて尊ぶ。

 ライブを見に行った時、その人が目の前で歌っているところを見て、情報量の多さにうちのめされた。この人は生きているのだと思った。そしてその身体、目の前で躍動するその身体には、生活があるのだと知った。目の前で歌うその人を見るまで、私はその人が自分と同じ時代に「暮らしている」のだと思っていなかった。

生きている人だ。

 今まで私が追ってきた人は、南北朝時代の人だった。彼が死んだお寺で働いて週2でお参りし、自分の近況を墓前に報告した。本が出れば買って読み、当時のことを研究した。真実を求めた。彼が生きたことを示す言説は豊かな過去の中に飲み込まれながらも確かに存在したが、2017年の我々はそれを直接見ることができない。だからこそ、すべての人がそこに触れられないことが前提となって、彼を探すのだ。それは信仰だった。誰にも触れないものを必死で見ようとするときが一番幸せだった。私の暴力的な探求を受け止められるだけの大きな隔たりが、私と彼との間には時間という形で存在する。

 

 生きている人には真実がある。触れられる場所にある。それが怖かった。死ぬ気で調べれば触れられるところに真実があっても、もちろんファンはファンのために用意された情報だけを受け取らねばならない。ファンのために用意された情報によって構築された虚像は、私という一人のファンの頭の中に出来上がった「想像上の他者の人生」だった。真実は目の前にあり、同時にない。追い求めてはいけない。相手が人間であり生活していること、今を生きているというのは、相手は神様ではないということだった。真実の信仰は不可能だった。

 

 漫画の「ハイキュー!!」も、自分にとっては極めて面白く、同時に酷な漫画であった。言わずと知れた大ヒットバレーボール漫画だが、ここに出てくる選手たちは皆愚直で純真で、生命力にあふれている。悪意がないのだ。他人を憎んだり、殺してやりたいと本気で思ったり、悪意にうちのめされて動けなくなったりしないのだ。読みながら、最終的に絶対に全員が前を向いて終わるのだろうという確信が持てる。そういう人たちのぶつかり合いが、極めて身体的な次元の言葉と絵で表現される。

自分が何よりも拒絶してきた《身体》をフル活用している人が美しく見えるとき、自分の生は何よりもくすんで見えた。光に焼かれる感覚が痛かった。フィクションなのだからそんなこと考えても意味がない、とは何度も思った。それでも、人生に対する解像度の高い漫画のキャラクターは、「想像上の他者の人生」という次元においては前述のアーティストと同じ平面におり、私の中ではリアリティーを持って立ち上がっている、一人の人間なのだった。

 

 そう、何よりも嫌なのは、美しいもの・尊いものを見ているとき、猛烈に自分という視点を意識してしまうことなのだ。ここまで気持ちの悪い文章をだらだらと書いてきて、本当に申し訳ない気持ちになっている。自分を失って、ただ純粋にすばらしいものにすばらしいですねと言いたい。言いたいのだが、私はどうしようもなく私であり、邪魔な身体を引きずってここにいる。

 これは自己陶酔であるという誹りを免れないし、自己陶酔である自覚があるからこそそれをやめようとし、やめようとすることで逆に意識はもう一度自分へ向く。絶望だ。生きていることはいつもつらい。それでも、あの人の歌が聴きたい、あの漫画の続きが読みたい、という気持ちは、確実に私を生かしている。

 

 

『僕のヒーローアカデミア』を読む:子どもたち秩序と混沌に立つ

本稿の内容

・「ヒロアカ」社会状況の整理と問題

オールマイト以後の時代はどうなるのか

・緑谷〜爆豪ラインの整理

 

 

(1)オールマイトという秩序

 超人社会黎明期という一つの混沌をより分けて、「ヒーロー」と「ヴィラン」という二つの立場が作り出された。これまでの「人間」像を破壊するような人間が秩序の内側を闊歩する混乱の中、前者は「能力を用いて市民を助ける正義の人」、後者は「能力を用いて市民に害をなす悪の人」ととらえられている。しかし、「助ける」とは何か? 「害をなす」とは何か? これらは単発の行動に対する一つの評価であって、個人単位の評価では微妙な場合、誰を対象と見るかによって意味が変わる場合など、曖昧で多元的な基準である。ではどのように分けたのか。スピンオフ作品『ヴィジランテ』を参照すると、自警団(ヴィジランテ)の中から世間の支持を得た者が世論によって「ヒーロー」として政府に公認され、それ以外の場合で勝手に個性を行使する者が「ヴィラン」になる、という流れを辿っていたことがわかる。肝は「人気」だ。社会において看過されないレベルで己の「個性」=暴力を使うという意味ではヒーローもヴィランも同じだが、「この人なら人を傷つける意図ではなく、人を助けるためだけに能力を使ってくれるだろう」という「市民の信頼」によって暴力は正当性を帯びたのだった。この「人気」だの「市民の信頼」だのの、なんと曖昧なことか! 
 つまり原初人をヒーローたらしめたのは「人を助けよう」という一方的な意思ではなく、「あなたを助けたい」「私はあなたに助けてほしい」という、「救済」行為に対する双方向からの同意の成立だったのである。これを「救済契約」とでも呼んでみよう。救われる側が手を伸ばし、救う側も手を伸ばして初めて握手に至るのと同じである(作中の「手を握る」行為は頻繁に救済契約成立のシンボルとして読み取れる)。

ヒーローになりたいなら手を差し伸べるだけではダメだ。相手からも信頼して受け入れてもらえないなら、救済は成立しない。そのために、ヒーローは「己が何者であるか」を社会に開示し、自分がヒーローであることを担保せねばならない。本来身体能力でしかない「個性」を、「あなたがたを助けるためだけに使う力です」と意味付けする。ヒーローネームもスーツも、「ヒーローであること」を己に固定するための道具だ。ヒーローたちは王のように身体をもうひとつ用意し、「ヒーローの身体」を後天的に身にまとう。

 これを「ナチュラルボーンヒーロー」として一つ上の次元でやりとげた男がいた。オールマイトである。

 


 オールマイトの魅力はいくらでも挙げられる――「私が来た!」という決めぜりふ、景気のよいルックス、決して消えないほほえみ、そして圧倒的な力。彼は「平和の象徴」になると誓って鍛錬を積み、それを達成した。オールマイトは無二の思想だ。彼は社会の精神的秩序になったのだ。

 作中、「オールマイト以前はよかったぜ」と嘆くチンピラが登場する。いわく、オールマイトが現れる前は「衝動が国に充満していた」そうだ。衝動とは無秩序なパワーである。やりたいことがたくさんある、ルールも突き破って何もかも思い通りにしたくなる、エネルギッシュなうずきである。しかし、オールマイトが現れてから法を犯す人間は確実に減った。オールマイトが超人社会の「中心」に立ったことで、社会の混乱は彼を中心とする同心円に均されたのである。カオスが秩序に編成され、みながそこに「おさまった」。そこをはみ出てまで何かをしようと思わなくなった。彼が正しい。彼の正しさの中にいればいい。皆そう感じている。犯罪の減少自体は喜ばしいことだ。しかし考えてみてほしい、たった一人の人間の思想が社会の秩序を作るのは、果たして健全なのか? いくら平和でもそうは言えない。価値基準が一つに集約されてしまうからである。「良くも悪くも、今は抑圧の時代だ」とグラントリノは話す。同心円は中心を作ると同時に周縁を発生させる。オールマイトによって生きやすくなった人がいる反面、周縁化されて秩序の縛りがよけいに苦しくなった人もいた。「オールマイト以前はよかったぜ」と言う人だって、アウトローだが人間だ。ヴィラン連合のトゥワイスも、「やつらが救うのは善良な人間だけで、いかれちまった人間は救われない」と語った。オールマイトの手からこぼれた人たちは、今の社会に居場所がない。オールマイトの理念に適合できなかった「いかれちまった人間」たちはどこへ行けばいいのか? 「善良」も「いかれちまった」も恣意的に割り振られる適切と不適切、何もかも政治的ではないか! 誰が守られ、誰が守られないのか? 誰が守っていて、誰が壊しているのか? そもそもヒーローとは何か? 超人社会は無数の問題を抱えている。

 

(2)オールマイト以後

 オールマイトが考えた象徴論は確かに莫大な効果を生んだが、結局象徴の再生産以外に続ける方法がない。オールマイトは本来苦しむ人に心を寄せて寄せて寄せて寄せて、どうにかできうる限り広範囲に「手を伸ばす」ために「象徴」になったのだろう。当時は一心不乱に、無我夢中の狂気で象徴を目指したに違いない。しかし今や彼の立場はオールマイトという一人の人間が責任を取れる範疇を超えて大きくなってしまった。社会はオールマイト一人に暴力を担わせすぎたのだ。

 無二の思想にして精神的秩序、オールマイトは神野事件によって引退した。精神的な支柱、同心円を組織していた中央が抜け、社会には穴が空いた。彼が負っていた暴力は、行き場をなくして社会に蔓延する。No.2のエンデヴァーが繰り上げでNo.1になったものの、支持層は20〜40代に偏っていて、全員から「信頼」を寄せられているわけではないらしい。トゥワイスいわく彼は「ヒーロー弱体化の象徴」だ。エンデヴァーでは「足りない」のに彼しかいないと人々は知っている。オールマイト引退後、犯罪発生率は確実に上昇し始め、徒党を組んで計画的な悪事に励む連中が増えてきた。秩序が崩れて「オールマイト以前」の衝動が少しずつ蘇る。まだ「衝動」の段階だが、同心円が崩壊したおかげで「飛び出す」人間が連帯し始めた。嫌な想像が簡単にできる、この先、ヴィラン側からオールマイトのような思想が出てきたら社会はどうなってしまうだろう? 先ほど述べたように、超人社会は矛盾だらけだ。いくらでも人がなびく余地がある。

 死柄木弔について考える。彼は「オールマイトの「手」からこぼれた子供」であった。オールマイトの師匠の孫だが、親に捨てられ、唯一彼に手を伸ばしてくれたのが「オール・フォー・ワン」、裏社会の「秩序」である。オール・フォー・ワンは教育を心得ているから、死柄木を育てはしても思想を植え付けるようなまねはしない。自分が腹の底から感じていることを自分で言葉にした「思想」が一番強いからだ。最初は破壊衝動だけで行動していた死柄木だが、ステインと接した経験、そして神野事件での「卒業」を境に、大きく成長を遂げた。自分が社会に違和感を感じていたのは、自分を捨てた人間の系譜がこの社会の秩序になっているからだと気づいたのである。死柄木は次なる裏社会の秩序になるだろう。あたかもオールマイトが出久を後継者として育てているように。

 

 

(3)子供たち

 さて、問題はこの先だ。「オールマイト以後」という時代区分に立ち会ったヒーローたちは、いかに「穴」と向き合うのだろうか。

 好ましくない経緯でNo.1となったエンデヴァーは、引退したオールマイトに「平和の象徴とは何か」と尋ねた。彼は自分が穴を埋められないことに責任を感じている。オールマイトはそれを見越して、「私の目指した象徴を君もなぞることはない」「自分にあったやり方を見つければいい」と話す。会話の最後、「何のために強くあるのか エンデヴァー 答えはきっととてもシンプルだ」というセリフとともに描かれるのは、子供の前で炎を出して見せる轟焦凍だ。親を憎んで使わずにいた「左」で子供たちと真摯にコミュニケーションを取ろうとする焦凍の姿が示す「答え」は、「目の前の人に全力で向かい合う」ことだろう。オールマイトは以前出久に「手の届かない場所の人間は救えない。だからこそ、象徴であり続ける」と告げている。ヒーローの根幹とは、まずはとにかく目の前の相手に全力で「手を伸ばし」、相手にも「手を伸ばしてもらう」、救済契約の成立だったはずだから。

  オールマイトのやったことを、ヒロアカは決して全肯定していない。彼が切り捨ててきたものを丁寧に描くし、彼のせいで苦しんだ人、縛られる社会も容赦なく出てくる。暗部がはっきり描写されている以上、このまま出久が第二のオールマイトになるかといえば、おそらくならないだろう。そうなってしまえば次に訪れるのは、出久が引退したあとの「デク以後」という虚無だからだ。今作がオールマイトを出久に挿げ替えて描きなおす物語だとは思えない。
 展開の予想という行為にさして意味を感じたことはないが、今の時点である程度の確信を持って想像できるのは「緑谷出久爆豪勝己を中心として、雄英高校のクラスメイトたちが並び立つヒーローになる」ということだろうか。なんといっても『僕のヒーロー“アカデミア”』なのだ。この章ではオールマイト以後を担うアカデミアの子供たちについて考え、想像の背景について記述していこうと思う。

 

⑶-ⅰ 緑谷出久

 緑谷出久というヒーロー志望者について、オールマイトの元サイドキックであるサー・ナイトアイは「私が理解できなかったオールマイトの底にある狂気によく似ている」と評した。サーはオール・フォー・ワンによって呼吸器を半壊する怪我を負ったオールマイトを必死に止め、「あなたはこのままでは凄惨に死ぬ」「人間らしい暮らしに戻ろう、引退しよう」と懇願したが、結局「その間に何人の人が苦しむ?」「私を探している人がいるから」と振り切られ、コンビ解消に至った経緯がある。解散の原因こそ価値観の違い、オールマイトの「狂気」なのだ。目の前の人の優しさを振り切って社会のために身投げした彼の思想の源流を、サーは出久に感じ取っていた。

 

 出久が持っているのは、オールマイトが人を助ける姿への憧れに由来する「人を助けたくなる衝動」である。相手がどう反応するか、自分は行動の責任を取れるのか、この行動が自分のその後にどう影響するのかなどを考えるより前に、苦しむ人に「手を伸ばして」しまう人物なのだ。自分で解決できない領域のことであってもなりふり構わず行動するせいで、「手を伸ばし」ても少なからず相手に迷惑がられたり拒絶されることもある。この点に関してオールマイトは「きれいごとを実践する仕事」「余計なお世話がヒーローの本質」と彼のこの性質を資質として認めているため、一つの意見として美徳と見ることはもちろんできる。

 その一方で、彼はヘドロ事件・保須市の事件・神野事件など、許可なく動く例が極めて多い。最終的にはよい方向に転がることが多いため毎度許されているが、母親からは「心臓がもたない」と泣かれたり「次は正規の活躍をしよう」と相澤に釘を刺されるなど、子供に秩序を教育する立場の人々からは何度も憂慮を示されている。彼の行動もまた秩序をかき乱す性格があることは見逃せない。「アカデミア」で教育される身としては極めて危うい立ち位置にあると言える。第1章では原初ヒーローとは「市民の信頼」で決まるものであったという経緯を確認したが、現在の超人社会において「信頼」云々の判断は制度と教育で代替されている。人を救うためにルールを破り続ける出久は、制度に収まりきらない「狂気」を抱えて立っているのであった。

 

 さて、出久に関しては〈拒絶されても手を伸ばして最終的に「救われる側」の心を開く〉という流れが繰り返し現れる点が重要である。

 具体的には轟との対話やマスキュラー戦などが挙げられるが、ここでは死穢八斎會事件について説明せねばならない。詳細は省くが、重要なポイントは緑谷の衝動が事件に救いをもたらしているということだ。最終決戦時、エリは救われることを一度諦める。自分のためにぼろぼろになっていくヒーローたちを見て、「自分が傷つく方がよっぽどよい」(=彼らは自分が受ける暴力をかわりに背負いきれない)と判断してしまうのだ。サーの予知も絶望的だった。具体的にはエリの死、治崎の逃走、ヒーローのたまごたちも負傷・死……。

 しかし、いくら傷ついても自分を諦めなかったミリオ、そして手を伸ばし続けた出久の姿によってエリに「救われる覚悟」が芽生える。結局事件の目的を達成した大きな要因は、覚悟を決めたエリの覚醒だった。このことをサーは「皆がそれぞれ未来を望むエネルギーをつむいだために予知が覆ったのだ」と話す。動けなくなるようなことは絶対するなと先生にとめられようが、救う対象に拒絶されようが、出久たちは自分の仕事を信じ抜いて状況を好転させたのであった。

 

 この事件の流れは読者に多くの予感をもたらす。オールマイト以後という時代は、出久たちの衝動がヒーローに火をつけ、ヒーロー一人一人が全力で伸ばせる限りに手を伸ばし続ける、「希望のエネルギー」が満ちた社会を作るのではないだろうか。言ってしまえば、全員がオールマイトになるのだ。そしてヒーローとヴィランの曖昧さなど、ヒーロー社会のルールをめぐる問題をここまで取り上げている以上、出久たちの成長とともに社会の方も変化していくのだろう。

 「熱の伝播」……節の最後に、仮免試験の最中、相澤が1-Aの印象について語った言葉を思い出して欲しい。「仲は最悪、クラスの中心にいるわけでもない、しかし「二人」の熱がクラスに熱を伝播させていく」……。もし先ほどの予想が的中し、オールマイトの引退した社会を「希望のエネルギー」を抱いたヒーローたちの「束」が超えていくとすれば、間違いなくこの先「オールマイト以後」の根幹となるのが、緑谷と爆豪なのである。

 

⑶-ⅱ 爆豪勝己

 なぜ「熱の伝播」の渦中が出久と爆豪がいるのか……それは熱の伝播には競争が不可欠であるからだ。今節では爆豪を中心に、幼馴染の関係性を解きほぐしてみたい。

 

 爆豪は本来自分を客観視できる理性の人であり、繊細なモラルや気遣いも持ち合わせているが、それらを振り切ってありあまる山のようなプライドが彼を過剰に攻撃的な行動に駆り立てている。だからこそ自分の言動の責任を取るつもりがあるし、むしろあえて競争を呼び込むために挑発をするキャラクターだ。彼は名前の通り、望む自分になるために今の自分と戦い続けているのだ。

 

  思えば最初から、爆豪は出久を認めなかった。自分より弱いくせに、何かあると「大丈夫?」と手を差し伸べてくる幼馴染の存在自体、爆豪には屈辱だったのだ。彼に「手を差し伸べられる」というのは、自分の弱さを突きつけられているのと同義である。出久という鏡に自分の許せない部分が映り込むからこそ、爆豪は彼を受け入れない。

 作中に登場する彼の転機を確認していこう。

 まず第1話である。中学時代の爆豪は、「ヒーローになって高額納税者ランキングに名を刻む」と豪語し、不良とつるみながら内申を気にする、表層的な振る舞いが目立つヒーロー志望者だ。出久をバカにした嫌がらせを続けて雄英進学を断念させようとするなど、わかりやすい「いやなやつ」である。1話冒頭では彼が「出久に対する世間の評価」そのものとして機能する。

 しかし、ヘドロ事件で爆豪は一変する。絶望的な状況に対して何もできないのに突っ込んできた出久の姿に衝撃を受けたのだ。ここで重要なのは、この事件が爆豪に与えた衝撃と世間の評価が裏腹だったことではないかと思う。爆豪が今までバカにしてきた相手の底知れない可能性を目にして恐れを抱いた一方、世間で賞賛されたのは抵抗し続けた爆豪で、出久は「危ないことをするな」と厳しくたしなめられた。このことは、彼の価値観を「世間の基準に君臨するための挑戦」から「己が目指す己になるための戦い」へシフトさせたのではないか。まさに「勝己」である。そしてこの思いはヘドロ事件の時に発生したものではなく、彼がもともと持っていたのに周囲にライバルがいないせいで忘れていた感覚なのだ。ここでも競争の必要性が浮かび上がった。そして同時に「世間に理解されない」彼の険しい道も強調されることになる。

 

 次いで、入学最初の戦闘訓練における敗北がある。ここで初めてはっきり現れてくるのが、出久が「君に勝ちたい」と言うことそのものへの拒絶である。爆豪はそもそも出久が自分と同じ土俵に上がってくるのが恐ろしいのだ。出久を自分と同じ単位であると認識したくない一心で爆豪は私怨に全振りした行動を取り敗北した。「ここから一番になってやる」という決意表明は、爆豪がヒーローになるための第一歩でもあり、出久をライバルとして認識する第一歩でもある。「他者によって己の弱さを知る」というそれまでの爆豪に不足していた姿勢が、ここで少し受け入れられる。

 そう、他者なのだ。のちの体育祭で「俺が一位になる」という宣誓を「笑わずに」(出久はこれが侮蔑ではなく「自分を追い込む」挑発だと見抜いた)行ったこと、そして轟の戦意喪失に激怒したのも、中学の時の彼からは想像もつかない成長ではないか。自分と相手が対等に闘志を抱いて全力でぶつかることを望んだのは、爆豪が他者を自分と同じ単位で認識した証拠ではないか。

 続く期末試験の出久との共闘で、爆豪は信念のために屈辱を飲み込む決断をする。一度は「出久の力を借りるぐらいなら負けた方がましだ」とまで言った、そこまで嫌っていた相手を、オールマイトという憧れを目の前にして初めて己のなかに組み込んだのだ。それでもまだ対話には至らない。

 

 

 爆豪が他者を認めることの意味は極めて重要だ。出久が皆の「先」に立って突っ走ることで熱を伝播させる存在であるのに対し、爆豪はその立ち位置とストイックすぎる生き方ゆえに他者に「背後から」火をつける。すなわち、常にできうるかぎり上を目指している爆豪がいることでクラスメイトは奮起するし、爆豪に認められることは粉飾一切抜きの承認だと確信できるのである。

 

 彼の他者認識に関して、林間合宿及び神野事件は極めて象徴的だ。出久は林間合宿で伸ばした手を爆豪に拒絶され、「完全敗北」を喫する(これも「救済契約の不成立」からくる敗北、という意味が含まれる)。その後彼は「まだ手は届く」という切島の言葉にあてられて「誰からも認められないエゴ」のつもりで爆豪救出に向かい、爆豪に「手を伸ばす」役割を「他のだれでもだめだ」として切島に依頼する。あの場にいたメンツのうち、最初から爆豪と対等に向き合い続けてきたのは切島だけだったからである。ヒーローがヒーローの手を取ることは救済である以上に協力だ。「助けられたわけではなく離脱に最適な手段がお前たちだっただけ」と爆豪が強調しているが、切島はこの屁理屈を笑顔で受け入れる。お互いに尊敬があるからそれができる。幼馴染にはそれができない。

 

 出久と爆豪の憧れの違いは残酷に現れる。仮免試験のあと、出久を深夜のグラウンドに呼び出した爆豪は、出久の個性がオールマイトから受け継いだものであると看破した上で「お前の憧れが正しくて俺の憧れは間違っていたのか」と問う。

 幼馴染はこの夜、初めて対話した。爆豪が「俺を見下してるような俯瞰する目に腹が立つ」と言っている一方、出久は「君のすごさが鮮烈だったから君を追いかけてきた」と話す。二人の立ち位置に関する認識には奇妙なずれがあった。出久の目では、スタート位置に著しい違いこそあれ、自分と爆豪が同じ道を走っていると考えている。しかし爆豪の感覚では、「遥か後ろを走っていると思っていたやつが自分を俯瞰していた」、つまり出久の位置は上空=自分より高次なのである。爆豪は聡明だ。だからこそ「正しさ」に自分が焼かれている感覚を冷静に感じ取った。爆豪が持ち出した「正しさ」とはオールマイトという秩序に照らした正当性である。爆豪は知っている、自分が世間からは攻撃的で粗暴だと思われていること、その視線がヒーローの資質に対する疑いと極めて近いこと。そして、他者に優越しようとする己の衝動が、誰に何を言われようと「もう曲げられない」純粋な憧れであることを。だからこそ苦しい。一時代の秩序を一人で背負ったオールマイトと、彼に認められて後継者になった幼馴染。この二人の師弟関係が今後のヒーロー社会の根幹だとするなら、自分は出久に「存在ごと」負けたということではないか。彼は自分の根幹を疑って悩む。

  ここで思い出す。神野事件での一幕で、爆豪はヴィランから勧誘を受けた。原初ヒーローとヴィランを分けた基準=人気/市民からの信頼=に照らすならば、彼はヴィランになってもおかしくないのだ。死柄木が爆豪を勧誘するときに語った「なぜこの状況でヒーローばかりが責められているのか」「ここにいるのはみなヒーロー社会に縛られて苦しんだ人間である」という演説は、つまるところ「ヒーロー」と「ヴィラン」を分ける壁の危うさと恣意性に対する疑問であり、これらに無責任に身を委ねて平和を「消費」する社会への怒りでもあった。そして死柄木は、爆豪がこれらに共感してくれると考えたのである。

 確かにこれまで爆豪は「個性」と「ヒーロー」をめぐる政治的評価に翻弄され続けてきた。「ヒーロー向きの『いい』個性ね」と言われて誉めそやされ、彼自身を見つめた人はごく少ないままだった。自分の信念に従って行動すれば拘束を受け、世間では「凶暴だからヴィランになってしまうかも」と「判断」された。

  それでも彼は屈服しない。彼が出した答えは「全部俺のものにして上へいく」という一言に集約されている。幼馴染が初めて対話した夜、オールマイトは爆豪に謝罪するが、爆豪は「今更……」と抵抗感を示し、彼に頭を撫でられても払い除けた。爆豪は「君も少年なのに」と「守られるべき子供と守るべき大人」の立場から気遣われたかったわけではなかった。オールマイトと対等に戦って彼の上に立つつもりだったのだ。それが立ちはだかるものをねじふせたいという衝動と「オールマイトの勝つ姿への憧れ」を根本に抱いて生きてきた爆豪の「道」だった。オールマイトが秩序になっているなら、オールマイトになるのではなくオールマイトそのものを超えたい。彼は秩序に苦しんでいたわけではない。秩序に翻弄されるぐらい、爆豪にとってはただ圧倒すればいいだけのわずかなハンデなのだ。全部超える。ねじふせる。「プルスウルトラ」という標語通り、爆豪もまた「超えていく」パワーの持ち主だった。だからこそ、あの場面で初めて幼馴染が「まっとうにライバルっぽく」なったのは、爆豪が「オールマイトを超える」という目標の対象として後継者である出久を受け入れたことに他ならない。オールマイトに選ばれなかったこと、自分がまだ守られてしまうほど弱いこと。爆豪は他者に接してそれらを認識し、受け入れた上で全部超える。爆豪は自分にはそれができると信じているから、「やることは変わらない」。

 

 

(4)総括

 以上、まとまりなく目についたことを書き上げてきた。「読めばわかることしか書いてない」と思う方も「拡大解釈だ」と違和感を感じる方もいることかと思うが、一ファンの読解としてご容赦いただきたい。私がこの作品を愛読するのは、多角的に社会を描く姿勢が好きだからだ。「ヒーローアカデミア」は、子供たちがヒーローという概念を教育と経験で身に付けていく場所である。彼らが社会の危うさ、自明でないものの上に立ち、これからどんな道を選ぶのか、今後も丁寧に読んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

親友の結婚式で何を語るか:「死ぬまで一緒に遊ぶ」可能性について


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 最近、親友への愛をどうしていいかわからず困っている、というメッセージを立て続けに頂きました。

 一枚め(仮にAさんとします)の場合は、しょっちゅう会うわけではないけれどとても大事に思っている友達(確か以前の質問箱ではそう書いていらっしゃいましたよね?)が結婚するかもしれないと聞いて新郎への恨みに浸かっておられる方、二枚め(Bさんとします)の場合は親友への独占欲が重い自覚があり関係が変わってしまうのではないかと心配されている方です。

  この二つのご相談に関して「親友への愛」問題を考えたあと、個別のご相談について書いてみようと思います。

 ※4月25日夜10時 追記

 

死ぬまで一緒に遊びたい

 結婚とは何でしょう?

 簡単に言えば「家族になるための誓約」なのでしょう。近代家族制度においては一夫一妻で家族になって子供を作る、そういうモデルが想定されています。社会の中の「結婚」には、性愛関係にあるヘテロの「男」と「女」がするもの、というイメージが強くあると思います。

 

 この調査によると、「家族・友達・恋人・仕事・趣味のうちどれが一番大事か」という質問に、65%の人が「家族」と答えているそうです。二位以降は趣味、恋人、仕事、友達と続きます。友達が一番大事だと言う人は、家族が大事だと言う人の13分の1以下です。三位の恋人との違いを見ても、やはり「家族」と「いずれ家族になるかもしれない関係」は、友愛よりよっぽど重要視される傾向にあるのではないかと思います。

もっと大胆に言うなら、

友達<(越えられない壁)<家族

今の世の中にはこういう式が成り立つと言えるかもしれません。

 

 

お前が結婚したら死ぬ」……私が実際に親友から言われた言葉です。親友へのヘビーな感情という私の今までの人生のなかでもかなり巨大なテーマを語るにあたり、どうしてもわが親友の話をせざるを得ません。ここでは仮に地獄太郎と読んでおきます。ちょっと具体的な話も書いてしまうけど地獄太郎は許してくれるかな……まあ多分大丈夫だと思います。

 私は地獄太郎がいなかったらここまで生きてこれませんでした。かれこれ10年の付き合いになりますが、辛いときはいつも「私にはあの子がいるから大丈夫だ」と言い聞かせて乗り切ってきました。楽しいときや美味しいものを食べたときには地獄太郎を連れてもう一度ここに来たいといつも考えます。迷惑もお互いに相当かけましたが、何があっても関係が揺らがないことをお互いに分かっています。

 地獄太郎が「お前が結婚したら死ぬ」と言うのは、お互いがお互いの一番であるという優先順位の崩壊が嫌だからだと思います。私も地獄太郎が結婚したら同じ理由で死ぬかもしれませんし、何より先に死なれるのが一番嫌なので結婚するつもりは一切ありません。そこまでいってもなお、地獄太郎と私は結婚という制度に脅かされているという感覚が捨てきれません。「なかよしのともだち」というだけでは、社会的な単位として認められないからです。「男女のつがいだけが家族で、一番優先されるべき仕組みである」という無言のプレッシャーは確実に存在します。男女の友達ならつがいの形式を選ぶこともできるでしょうが、同性の友達相手ではそれも困難です。どこまでいっても「未婚者」=「いまだに結婚してない人」としか認識されないであろうことは、容易に想像できます。「家族」を持つことは、その人個人の社会的な信用につながっているのです。

 どうして男女のつがいを軸にした「家族」ばかりが特別なのてしょう? 恋愛・性愛の相手をそのまま生活の運営をともにする相手として選択できる人の方が私には不思議です。私は誰かと一緒に生活するなら、友達と死ぬまで遊んで暮らしたい。仕事が終わらないと言って地獄太郎に泣きついたり、喉が乾いたら地獄太郎のぶんまでお茶を淹れたりしたいのです。最後まで地獄太郎と微妙につまらない映画を一緒に見てごちゃごちゃ議論を交わしたいのです。

 誰が誰とどういう関係で暮らしていても(もちろん誰も選ばなくても)、同意があるなら誰からも何も言われず、「普通」のこととして扱われる。そういう生活を当たり前のように選べる世の中にしたいといつも考えます。あるいは社会保障などの制度面が「家族」ではなく「個人」ごとにはっきり切り離されて整備されれば、あるいは姓を自由に選べれば……。近代家族制度を解体し、排除されてきた「社会的には名前のない関係」が人生のカジュアルな選択肢に入ってきたなら、実は名前のある関係を生きている人もふくめて、今より息がしやすい未来が来るのではないでしょうか。(了)

 

 

 

 

 

個別のご相談について

Aさん

お疲れさまです。

「幼馴染みが幸せならあとはどうでもいい」のに新郎には恨みが募るというのは、やっぱり「親友では彼女を『幸せ』にできない」という悔しさがあるのではないかなと思いました。男女のつがいばかりが特権化されている状況が打開されれば、きっと親友という地位の価値が相対的に下がったように感じることもないのではないかと思います。しかしその道のりは極めて遠いし、「家族」に疑念を持つ身であっても「家族」を特権化する社会の風潮を内面化せずに生きることは難しいですよね。おかしいと思っていてもあらがえない、まさに「どうすればええんや」としか言いようのない状況なのでしょう。

それでも、「親友は親友で、唯一無二の存在なんだ」ということをあなたの方から信じて、そして幼馴染の方に伝えてもいいのではないでしょうか。もしかしたら、幼馴染の方の方こそ「自分が結婚することを気にして遠慮しているかもしれない」と心配しているかもしれません。まだ何も決まっていないとのことですが、自分はあなたのことを唯一無二の大切な友達だと思っていることを、式のスピーチでも個人的な手紙でもよいので素直に伝えてしまえばいいと思います。真摯に書けばきっと大丈夫です。

 

Bさん

「これは自然なことか」……これ、気にしなくていいです。自然か不自然かはどうでもいいと思います。「自然か不自然か」は「普通か異常か」につながるし、これで自分の中で「異常」判定になってしまったら、そのまま自罰的な態度をとり続けるしか無くなってしまうからです。そう感じたならひとまずそれでいいのです。

親友への愛が相手にとって邪魔なのではないかと心配されているようですが、これに関しては対話しかないと思います。相手が嫌だと思うことをしないためには、相手が何を嫌がるのか聞かないといけません。「きみほど最高の友達はいない、ずっと遊んでいたい」など、やんわり伝えて反応を探ってみてはどうでしょう。めんどくさそうにされたらその独占欲はちょっと小出しにしないとまずいかもしれないですね……。一番最悪なのは縁を切られることなので、とにかく相手の嫌がることをしない、これが第一です。それはそれとして素直に愛を伝えるのは大事なので、粘り強く相手に寄り添い続けてみては。

 

 

4月25日:追記


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 Aさんからお返事が来ました。

恋愛だったらむしろわかりやすかったという感覚、とてもわかります。社会的に名前がない関係には落としどころがないですもんね。見たい映画があったら真っ先に誘われるのは私じゃなくて彼氏の方なんだとか、「今までと変わらないよ」という体裁で距離が開くのはとても悲しいです。かっこつけずに全部伝えるご決断、とても素晴らしいと思います。悲しい気持ちや絶望の地点でストップせずに対話する!結局それしかない気がします!頑張ってやっていきましょう!丁寧なお返事、ありがとうございました!

 

君は「国立奥多摩美術館」を知っているか

話は一昨年にさかのぼる。

当時私は「サウダーヂ」という映画が見たくてたまらなかった。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 山梨を舞台に土方の青年たちを描いた凄まじい映画なのだが(感想はリンク参照)、この映画の製作者であるグループ「空族」は方針として作品のDVD化をしておらず、見るには劇場で放映される機会を待つしかない。いやいやいやいやなる早で見たい。都内のどこかで見られないものか。困っていたところに、フォロワーの人から「国立奥多摩美術館というところでリバイバル上映をやるらしいですよ」という情報がもたらされた。これは行くっきゃない。行くぞ!

 

そしてたどり着いたのが、青梅だった。

 


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……いや、これ、どこ?

青梅市自体来たことがなかった。『怪談レストラン』のどれかに昔の青梅駅を舞台にした話があって、確か乗り過ごした電車の終着駅として青梅が出てくる。そのせいで青梅はなんとなく「最後に行き着く場所」のような気がしていたんだけど(青梅の人本当にすみません)、実際たどり着いてみると驚くほど緑が豊かで山に囲まれた場所だった。駅には「昭和の町青梅へようこそ」といった「昭和っぽさ」を売りにするキャッチコピーが貼り出されていて、レトロな映画の看板が飾られている。この時点で結構「おお、だいぶ遠くまで来たな」という印象だった(本当にすみません)。

しかし青梅には「その先」があったのである。(本当にすみません)


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軍畑。これが今回の目的、「国立奥多摩美術館」の最寄駅である。回りは山、遠くには霧がたちのぼっている。

たどり着いて腰が抜けた。改札が、ねえ。


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そこにあるのは入出場のパネルだけである。Suicaをチャージせねばならないのだが、なぜか券売機は1000円札しか対応しておらず、突っ込んだ5000円が「この紙幣はご利用になれません」というアナウンスとともに戻ってきてしまう。

そしてそれを聞いた子供が「ご利用になれません!!!!!!!」と叫んで私の横を走り去っていった。え?

そう、なぜか駅前に人が溜まっている。若い男性が自転車を停めて輪になって座り込み、「今日あっちゃんなんでいねえの?」と話し合っている。あっちゃんって誰だよ。私がおろおろする様子に「なんだこいつ」と言いたげな視線を投げてくる。気まずい。駅にやってきただけで気まずい思いをしたのは初めてだ。

とりあえずチャージしないと改札を通過できない。軍畑無人駅である。呼び出しを押すと青梅駅の駅員さんにつながった。「今手持ちが5000円札のみなんですが……」と言うと、「両替できる予定があるなら、今はそのまま出てしまってください。帰りに乗るときチャージをやり直して、出場のほうをタッチしてからもう一度入場をタッチしてもらえれば大丈夫です」と教えてくれた。「両替できる予定」。すごい。確かにGoogleマップを見ても民家ばかりで、名前が掲載されている建物がほとんどないのだ。

マジ?ここ?本当にここに国立美術館があるのか?

とりあえず歩き始めた。すごい。怖い。

 
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少し歩くと、周囲の風景はざっくり三つの言葉で言い表せることに気づく。「緑」「川」「道路」である。家もぽつぽつあるが、もれなく壁に蔦が這っているのでだいたい緑だ。道路には車線と歩道を分けるものがなく、車を気にしながら端っこを歩いたが、そもそも車も十数分歩いて数台しか通らなかった。川は水の流れが激しいようで、あちこちでごうごうと唸っている。マジで人通りは皆無だった。パンデミック以後の世界を描いた映画を撮るならここだな、と思った。

 

少し迷ったが、国立奥多摩美術館にようやくたどり着いた。壁に建物の名前がでっかく掲げられているのでわかりやすい。中に入った。


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めちゃくちゃ驚かれた。

入った瞬間、入り口にいた女性に「え!?どうして来たんですか!!??」と言われたことを鮮烈に覚えている。どうしてって……え!?

「あ、多摩美の学生さんですか!?」

違う。しかしその第一声と第二声によりこの施設が「めったに人は来ないし、来てもかなりの目的を持って勉強のために来る美大生である」ということがなんとなくわかってしまった。映画を見たくて来ました、というと、ああそうですか……と言われて受付に案内してくれた。館長らしい男性からチケットを購入する。館長もなんだかやばい。館長が着ているのはレコードのジャケットでしか見たことがないシルエットの派手なスーツで、これが彼の若さとミスマッチを起こし、結局何歳なのかよくわからなくなっている。そこでおもむろに目の前に何かの紙とボールペンを出された。

「あの、足場が悪いところがあるので、そこで転んでも自己責任ですという書類にサインしてもらっていいですか」

そんなに悪いの!!??

 「あと、今◯◯くんっていう、うちのアーティストが『ガロ』でデビューしたので、その原画展をやっています、よかったら見てください」

振り返ると、難解なイラストが壁を埋め尽くしていた。お、おう……。

これは、やばい。この時点で私は「これは何かのネタになる」と思っていた。勇気を振り絞って質問を投げる。

「すみません、ここ、本当に国立なんですか?」

「え〜〜〜……と……少なくとも日本国の国立ではないですね」

でしょうね。

(ただ信じてほしいのだけど、私はここで質問するまでもしかしたら本当に国立なのかもしれないと半分ぐらいは本気で思っていた。だって国立だよ。国立じゃないものが国立を名乗っているところを、私はこれまで見たことがなかったのである)

そこで隣にいた男性が「これそういう設定だったんすかw」と会話に入ってくる。「そんな裏設定あったんですか」「いやそういうのはないけど」という話から察するに、別に空想国家計画から発生した施設ではないらしい。そして館長は話を続けた。

「あの、ここ、国立って言ってるけど国立じゃないし、奥多摩って言ってるけどここ奥多摩じゃないし、ついでに美術館でもないんですよね」

じゃあ何!!!!!!?????????????????????

「では、上映は大宇宙スクリーンで行いますので」

大宇宙スクリーン??????????????????????????

 
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これはやべえ。

 

 
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上映までの間、建物を見て回った。館長が言っていた通り、美術館ではなく共同のアトリエと言った方が的確である。まず入ったところにロビー(写真上)があり、その奥に作業場であるガレージ、さらにその奥にスクリーン小屋があった。足場はびっくりするほど悪いわけではないが、そこかしこに製作中の作品や道具類が散らばっている。トイレは外にあり、通路が横にならないと進めないほど狭く、しかも自分でバケツで水を汲んで一回ずつタンクに水を入れないと流せないシステムだった。すごい。

ロビーではカップ麺や飲み物が売られていた。今回の映画の上映に合わせて、館長が奮発してポップコーンマシンを導入したそうな。なんかこういう風景見たことある気がするなと思ったが、おそらく幼少期によく親に連れられて怪しい祭りでエスニック系の洋服を売っていた記憶のせいだろう。薄暗いビルの間に屋台が並び、そこでナンを買ってもらって食べた思い出が蘇る。まあそれはどうでもいいことだ。しかし周囲にたむろしている人々は皆関係者のようだ。マジでアウェイか? いや敵じゃないんだけど。

 

大宇宙スクリーンは、まあ、大宇宙……大宇宙……大宇宙か?という見た目をしていた。中に入るとちょっと面白い。椅子のバリエーションがすごいのだ。パイプ椅子、キャンプ椅子、ソファ、車椅子まである。かわいい。ちょっと迷って車椅子の隣に陣取った記憶がある。この段差も手作りなのだろう。新しい木の匂いがした。


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この日は、「空族」の映画を一挙上映し、途中途中でトークショーを挟むというイベントだった。私はそのうち、トークショーと「サウダーヂ」が見られる時間を狙ってスクリーンの前に座ったのである。しかし製作者のトークショーつきだというのに、客は私以外三、四人しかいなかった。 まあこうも遠くちゃな……。この「国立奥多摩美術館」という謎空間に圧倒されていたせいもあり、このトークの内容は全然覚えていない。ただ館長らここを作った人達はだいぶ借金をしたという話、こういうアーティストが自由に作品作りや発表をできる場を維持していってほしいという空族の脚本家の方のコメントは覚えている。

 

作品の内容は、めちゃくちゃ面白かった。ぼろぼろに泣いた。

しかし……大宇宙スクリーンには一つ問題があった。壁がめちゃくちゃ薄いのだ。「この映画やたら雨のSE多いな」と思っていたが、途中からそれが外で鳴り響く川の音だと気付いた。「サウダーヂ」は山梨弁が多く出てくるのだが、川の音とも相まってセリフ若干聞き取りづらい。ただ、定員30人ちょっとのこの手作りの映画館で、できる限りよい設備を準備しようという姿勢だけはビンビンに伝わってきた。映像に関しては、とても見やすく、美しかった。

 

スクリーンを出ると、ガレージの外が真っ暗だった。確か九時台だったと思うが、とにかく周囲に明かりがないのだ。急いで帰らねばならない。ロビーへ戻ると、軽食売り場の店番に立っていたお兄さんが、見知らぬ人が歩いてきたことに驚いたのか、私をとっさに呼び止めた。

「あの……ポトフ食べていきませんか!??」

「いらないです!!」

こうして私は国立奥多摩美術館をあとにした。

 

 

帰り道が本当に怖かった。暗い。暗すぎる。しかも行きも迷ったというのに、帰りの景色はすっかり夜で、昼とは様変わりしている。人通りは相変わらずゼロ。迷っても尋ねられる人はいない。これ死ぬんじゃないかな? あまりの恐怖にでかい声で歌を歌いながら歩いていた。YUKIの「Home Sweet Home」。無意識だったが、無事に帰りてえ!!!!!!!!!!という気持ちが爆裂した選曲だった。

ようやくたどり着いた駅で、私はSuicaをチャージし、「出場」をタッチしてから「入場」をタッチして、行きのぶんを清算した。駅舎のホームには先ほど一緒に「サウダーヂ」を見ていた数人だけが立っていた。

 

「国立奥多摩美術館」がなんだったのか、私にはよく分からない。しかし、国立でもなく奥多摩にあるわけでもなく美術館ですらない謎の空間があの山の中に佇んでいるということが、意味もなく頼もしく、なんとなく嬉しいのである。

 

ちなみに、その後渋谷の映画館で「サウダーヂ」をもう一回見た。めちゃくちゃ聞き取りやすかったが、新しい木の匂いは、しなかった。

 

 

 

生きるのが少し楽になるBLレビュー

生きているとしばしば自分が許せなくなることがある。そういう時はとてもつらい。何かをしていても落ち着かない。自分はこれでいいのか、生きていてもいいのか。考え出しても答えが出るわけがない、そもそも問う意味もないような質問にとらわれてしんどい時、あなたを助けるのは素敵なBLかもしれない。以下に紹介するのは、私自身が「救われた」と思ったBLである。眠れない夜、早く起きすぎた朝、あるいは気だるい午後でも、ぜひ一度手にとってみてほしい。これらの作品が示す結末に、「この世にはこういう救いもある」と思えたなら、生きづらい気持ちはきっと少し和らぐ。

 

 本郷地下『世田谷シンクロニシティ

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

 

  「好き」という気持ちと「セックスしたい」という気持ちは、当然のように同じ線の上にあるものとして語られてきた。Aの次はB、1の次は2、付き合ったんだからセックス……世間にはそういう「当然の順序」がどっしりと鎮座する。「当然」とは何だろう? そこに従えない人間は、どうやって生きていけばいいんだろう?

 

『世田谷シンクロ二シティ』の主人公・大学生の高史は、恋愛として好きになるのは女性、セックスしたいと思うのは男性、という乖離に悩み続けている。舞さんという年上の彼女がいるが、セックスはしていない。それでもいいと言ってはくれているものの、彼女は明らかに体の関係を望んでおり、高史はそこに罪悪感を感じ続けている。

高史の人生を変えることになるのが、ゲイの同級生・深町との出会いだった。深町はゲイであることがばれたせいで実家とほとんど絶縁状態にあり、故郷の幼馴染に不毛な恋心を抱えたまま暮らしていた。

ひょんなことから数ヶ月の間同居することになった二人は、やがてお互いの「人にわかってもらえない」悩みを少しずつ打ち明けるようになる。

 

 恋愛的指向と性的指向のズレについて取り扱ったBLは、私はこの作品以外には見たことがない。ゲイやレズビアントランスジェンダーに関しては、近年メディアでも少しずつ取り上げられるようになってきたが、それ以外の「当然の順序」からこぼれた人たちについて取り上げたこと自体、一つの新しい功績だと言えるだろう。

セクシュアリティに「当たり前」なんて考え方はいらない。毎日変わったっていいし全員違っていていい。しかし世の中はまだ変わっておらず、テレビをつければ女性タレントが「好きなタイプはどんな男性ですか」と聞かれているし、書類一枚書くにしても「男・女」のどちらかを選ばなければいけない。どうしてこんなに決めなくてはいけないんだろう。「男」あるいは「女」に丸をつけるたびに、自分の中の何かが「不適切」なものとして削られていくような気持ちを味わったことがある人は少なくないはずだ。あなたはあなた、それだけでいいと、誰だって言われたい。でも世間はそう言ってくれない。

 世間の「当然」に苦しむ全ての人を、『世田谷シンクロニシティ』は暖かく受け止め、そのままでいいのだと断言してくれる。ラストシーンの深町のセリフを引用しよう。

「自分のこと 無理に決めなくていい

変わらなくていい 今はそれでいい

でももしいつか変わったとしても いいんだ

誰にも責められることじゃない 堂々としていろ」*1

変わらなくていい、そのままでいい。全ての人の生が、二人の大学生のささやかなラブストーリーを通じて許される。 世間と自分の葛藤を丁寧に描く、画期的な名作だ。

 

 一穂ミチ『off you go』

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

 

 

結婚という制度が多くの人から求められている理由のうちの一つが、「ずっと一緒にいる保証が欲しい」ということだ。「永遠の愛」という言葉に象徴されるように、もう変わらない、ずっとこの人が自分のパートナーであり続けると社会に宣言することで得られる何かが、確かにある。

『off you go』に登場する主要人物は三人だ。BLなら普通二人ではないのかと言われるかもしれないが、三人である。

新聞社の編集室に勤める静良時とその病弱な妹・十和子は、良時と同じ新聞社の外報に勤める佐伯密と幼いころから親しく付き合っている。幼少の十和子が密と同じ病室に入院していたことから始まった縁だったが交流は長く続き、いつしか三人の絆はこの上なく大切なものになっていた。

しかし、三人は大人になり、新たな壁に直面する。男女三人が「ずっと一緒にいる」ためにはどうすればいいのだろう? 密は当然のように十和子にプロポーズし、十和子はそれを受け入れた。断る理由はなかった。男と女が結婚し、女の兄がそれを祝福する、という構図が、社会においては「当然の順序」だからだ。「かけがえのない三人」が、「兄・妹・妹の夫」に変わり、良時の、十和子の、そして密の、口に出せない感情がタイムカプセルのように埋められた。

物語は、十和子から切り出された唐突な離婚により、この感情のタイムカプセルが二十年ぶりに掘り起こされる場面で幕が上がる。「兄・妹・妹の夫」は、「かけがえのない三人」に戻り、もう一度関係の構築をやり直すことになるのだ。

一見、社会のせいで結ばれることができなかった二人の男が、女の後押しで結ばれる悲喜劇のように聞こえるかもしれないが、それは違う。彼らは終始幸福だ。三人はお互いがお互いを深く愛していて、ただ性欲も含めた恋愛的なつながりを求めていたのは、結婚した密と十和子ではなく、良時と密だったのだ。ただそれだけのことなのだ。

本作は、愛の繋がりがしなやかに姿を変える様子を我々に見せてくれる。タイトルの「off you go」、つまり「行っちまえ」が、気に食わない相手を追い払う言葉ではなく自分の手から解き放って相手の思いを何よりも尊重しようとする姿勢であるように、愛ははたから見てどのような姿をしていようと、愛だと言うなら愛なのだ。本作は「形」によって息苦しい思いをする誰かの呼吸をそっとやわらげる、絆のBLである。

 

 紀伊カンナ『雪の下のクオリア

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

 

 

 ままならない恋愛と生活をそのまま・しかしぬくもりと明るさを保って切り取ることにかけて、紀伊カンナの右に出る者はいないのではないか。ご飯を食べる。人と話す。自分の布団で眠る。そういうことの繰り返しで時間が流れるという実感が、いつか人を暖かい場所へ導くのだと、言葉にせずとも伝わってくる。そういうもんかな、そういうもんだよと、苦しい現実を目の前にした時にそう言って肩につもった雪を優しく払われるような、現実のある種のむごさと優しさの同居する一冊だ。

舞台は分厚い雪に覆われた北国(おそらく北海道)である。植物学の研究室で学ぶ苦学生の明夫は、ワンナイトラブだけを繰り返すゲイの後輩・大橋海に懐かれて辟易していた。かつて好きだった人に裏切られたことで一人の人を愛し続けることをやめてしまった海と、蒸発した父親のことを引きずりながら「男も女も興味ない」と断言する明夫。取っている行動は真逆でも、二人は愛する人が自分から離れて行ってしまった過去を忘れられずにいる。

あっさりと言ってしまえば、海がかつて好きだった人とやり直すこともないし、明夫の親が戻ってきて家族が再生することもない。もっと言えば二人が分かりやすい形で結ばれる物語でもない。それでも二人は、お互いにお互いを愛しく思い、優しくしたいと思う。長い冬が明けて春になり、雪の下にあったものがゆっくりと顔を出す。

明けない夜はない、止まない雨はないという言説も、それらの否定も今までさんざん語られてきた。でも夜も雨も一日単位の話ではないか。苦痛は大抵日々だ。今日も何もできなかったと思う日がずっと続くこと、不愉快な人間関係の渦中に身を投じざるを得ないこと、いつまで経っても変わらないことそのものが、毒素のように体に溜まって折重なり、私たちの首を絞める。今作がやんわりと示すのは、不毛な日常を繰り返す人もいつか何か明るい場所に届くのではないかという春の予感であり、その日常自体への許しなのである。

 

 

 

*1:本郷地下『世田谷シンクロニシティ集英社、2017年。199〜200ページ。

読書の秋なので手軽に読める日本中世史本を貼っていく

序:基礎的なことをやりたい人向け本 

◯そもそも日本史選択ではなかった、あるいは忘れた、あるいは勉強したが何か基本的な情報を手元で確認できる本がほしい人 

『詳説日本史研究』
詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

山川日本史教科書準拠で中身の濃さは数倍の「詳説日本史研究」があります。コラムが多いし読み応えばつぐん。↑に貼ったのはなんと今年の8月31日に出たばかりの9年ぶりの全面改訂版だそう。私が持っているのは↓の古い方です。古い方がちょっと安い。

 

詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

寝る前に毎日めくってます。

 

◯高校日本史は一通り分かるけど史料は読んだことがない人

苅米一志、日本史史料研究会『日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法』

前近代日本列島に流通していたローカライズされた漢文=変体漢文を読むための最高の本です。買って損はない。

日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法

日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法

 

 これだけだと単語は勉強しきれないので、現代語訳の吾妻鏡と原文をつき合わせながら読むなどするとなおよいかもしれない。吾妻鏡は学部ゼミの最初の史料講読に使われることが多いらしいです。(私のときはそうではなかったけど)吉川弘文館から分冊で出ているので、好きな出来事から時期を選んで買ってみても面白いと思います。

 

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

 

 本題:面白い本を読みたい

(比較的)安く読めて面白い中世本のピックアップです。いわゆる政治史の本はほぼなく、どれも中世社会のあり方に関する内容です。中世に対するイメージを自分の中で再構築するとき、社会の解像度をがんがん高めてくれる素敵な本を選びました。

「中世の最大の特徴は「暴力」「飢え」「信仰」」という清水克行さんの言葉を念頭に読んでもらうとなお面白いかと思います。なお、私の興味の範囲の関係で飢饉に関する本が多いです。ご了承ください。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 こちらに記載した本は載せていないので、こっちの記事も参考にしてください!

 藤木久志『雑兵たちの戦場』
【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 

 戦国時代の村に焦点を当てた朝日選書三部作のうち最も有名な一冊。戦国武将は天下統一の夢を抱いて皆他国の征服に乗り出した、というイメージが世間には横行していますが、実際は全くそうではなく、彼らが奪い合っていたのはむしろ食料でした。飢餓が常態化した中世において、戦場は「口減し」の場だった……という衝撃的な内容を実証しています。

 

飢餓と戦争の戦国を行く (朝日選書)

飢餓と戦争の戦国を行く (朝日選書)

 
戦国の村を行く (朝日選書)

戦国の村を行く (朝日選書)

 

 三部作残りの二冊もぜひ一緒に読んでほしい……のですが、『飢餓と戦争の戦国を行く』はずっと品切れで、中古しかないようです……。

清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』 
大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

 

 めちゃくちゃ大好きな一冊。応永の飢饉という15世紀の日本列島を襲った未曾有の災害の一部始終を追いかけた本です。政治、気象災害、経済など、各方面から飢饉という"人災"のリアルをあぶり出す盛りだくさんな内容が大変魅力的です。飢饉は単なる天候不順による凶作ではなく、政治や経済を含めた社会のひずみが爆発した結果として発生するものだということがよく分かります。ちなみにあの一休さんが悟ったのも応永の飢饉の真っ只中だったらしい。

京都で最大限の高値で米を売るために商人がわざと運輸ルートを閉ざして飢えを促進する祭り「飢渇祭」を開き京都を作為的に飢餓に陥れた、という伝説のエピソードも収録されています。

 高野秀行、清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代
世界の辺境とハードボイルド室町時代
 

 こちらは「謎の独立国家ソマリランド」などの著作で有名な高野秀行さんと清水克行さんの対談本です。なぜタイトルが村上春樹のパロディなのかは誰にも分からない。

室町時代ソマリランドの意外な共通点など、その斜め上の視点に驚かされっぱなしの一冊。読みやすいので超オススメです。山口晃さんの絵を使った装丁がめちゃくちゃかっこいいです。

 

その清水克行さんの新刊はこちら。(買いましたがまだ全部読んでません……)

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

 

 

10月に出たばかりです!歴代室町幕府の将軍を一人一人章立てして紹介した読みやすい構成です。注目すべきは将軍ではないけれど将軍権力に大きな影響を与えた人物についてのコラムが挟まれている点で、私が大好きな足利直義についても掲載されています。直義の死因については諸説あり、(史料がないので大きな議論になる問題ではないのですが)清水説では尊氏による毒殺説が改めて推されていたのが個人的にはアツかったです。

 

 苅米一志『殺生と往生のあいだ』

 中世のキーワード「信仰」と「暴力」を兼ね備えた一冊です。中世は極端に殺生を避ける思想が発達した時代でしたが、実際には生きるために生き物を殺さねばならない局面は日々発生していましたし、人間もそこらじゅうで殺す・殺されるの戦いを繰り返していました。中世社会の矛盾を丁寧に解説していて、大変わかりやすいです。

  桃崎有一郎『平安京はいらなかった』

 衝撃的なタイトルが話題を呼んだこの本、めちゃくちゃ面白かったです。あの真四角の平安京は実は全部機能していたわけでは全くなく、ほぼ北東部しか稼動していない!ということを実証しています。「牧場・スラムとしての朱雀大路」など刺激的な目次が並んでいますね! 中国を真似て巨大な都を作ったものの、プラン先行で利用のリアルを考えなかった結果、どんどん荒廃して限られた部分しか使われなくなっていく……という前近代都市計画破綻の経過をたっぷり楽しめます!

政治的な意図によって設計されたものが人間の跋扈に全く即しておらず結局食い尽くされる流れ、最高〜〜!

勝田至『死者たちの中世』
死者たちの中世

死者たちの中世

 

 中世のお葬式について知りたい方はこちら。ちょっと前の本ですが、今年の初夏に重版されたようで、意外と店頭でもみかけます。

巻末にはなんと「中世死体遺棄年表」という付録つき。12〜13世紀の京都で観測された死体遺棄を年代順に掲載してあり、限られた用途に関して極めて便利です。

 ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』
大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)

大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)

 

 急にテイスト変わってごめんな!ほぼ近世史で恐縮ですが、16世紀の奴隷貿易に当時の日本列島はバッチリ組み込まれていて、ペルーにもゴアにもフィリピンにもポルトガルにも日本から出荷された人たちが生きていた!という壮大な人間ドキュメントです。16世紀のペルーの教会の隣にひだ襟を作って売るショップを開いていた自由民の日本人がいた、という話にはワクワクせざるを得ません。やっぱり人間が移動することは面白い!

この本、実はもっと長い本の一部を書籍化したもので、まだ続きがあるらしいので、みんなで買って続刊を促しましょう。

 田中貴子『性愛の日本中世』
性愛の日本中世 (ちくま学芸文庫)

性愛の日本中世 (ちくま学芸文庫)

 

 表紙がすでにいいですね。春日権現験記という14世紀の豪華な絵巻物の一幕で、セックス後の男女と女性の姿で顕現した神が描かれている有名なシーンです。

作者は歴史学ではなく国文学の研究者。稚児のジェンダーについて書いた文章が新鮮でとても面白い一冊です。「京女」という偏見など、短くて問題意識がはっきりした文章がいくつもまとまっているため、とても読みやすいのがありがたい。

稚児について知りたい人は松岡心平さんの本もオススメです。

 

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

 

 

 

 新しいものから古いものまで色々貼ってみました。政治史に比べ、社会史はとっつきやすくてテーマが幅広いのが魅力です。ぜひこれをきっかけに、読書の秋を中世と共にお過ごしいただきたいと思います。Have a nice 中世!

 

私とおじさん

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 仲のいいおじさんがいる。

おじさんと呼んでいるが、実際は高校時代の英語の先生だ。普通なら先生と呼ぶべきなんだろうが、私はおじさんをおじさんと呼ぶし、敬語も使わない。

おじさんはすごく不思議な人で、言語学者である。14世紀のラテン語とか、中世のフランス語とか、私にはよく分からない言葉にいつも夢中だ。勉強が好きすぎるあまり、逆に論文を一文字も書かずに大学院を中退したという過去を持つ。お金には微塵も興味を示さない人で、いつも私たちに美味しい食事をおごってくれる。どうしておごってくれるの?と尋ねたら、「自分が学生の頃は教授におごられていたから」と言っていた。でもそれは建前なんだろう。本音としては、ただ本当にみんなでご飯を食べるのが好きなのだ。テーブルの上を料理でいっぱいにして、みんなでおしゃべりするのが好きなのだ。

 

 私はずっと学校が嫌いだった。今も中高の先生に対してお世話になったとは思っていない。すごく嫌なことがたくさんあったし、それは私が悪いとか相手が悪いとかではなくて、時期と役割の問題だったんだと思う。先生というものがすごく苦手だった。目の前に先生が立っているだけで責められている気がして、勝手に涙が出てきてしまう。おかげで授業について質問しに行ったことは一度もない。

 そんな中で、おじさんとだけは普通に話すことができた。おじさんは先生というよりおじさんだったからだ。

 

おじさんは私の所属していた軽音楽部の顧問をやっていた。顧問といっても、たまにふらっと遊びに来て「うるさいからやだ」「バンドよりオーケストラがいい」などと不条理なことをつぶやいて出て行くだけの存在だった。変に説教くさいことは全く言わないところがすごく楽だった。おじさんはいい意味で自分のしたいことにしか興味がない。普通先生というものは教え子の近況を勉強とか打ち込んでいることで聞きたがるのではないかと思うのだが、私が夢中になっている中世史の話をしても「日本史興味ない」と言われる。そして本当にまじめに聞いてくれず、私の話の言葉尻から連想したラテン語をぼそぼそつぶやいて揚げ足をとる。「それどういう意味?」と聞くと語源から全部説明してくれるが、おじさんの説明の中で覚えている話は一個もない。私も自分がしたいことにしか興味がないからである。

 

私とおじさんはすごく似ていた。

好きなことしかしたくなくて、集団が苦手で、でも人と話すことは好きだった。

 

 

 「早く死にたいなあ。来年の誕生日に死にたい」

鎌倉のお寺で、庭を眺めながらおじさんがそう言った。おじさんでもそう思うんだなと思った。

おじさんには長生きして欲しかったが、おじさん相手にまじめな返事をするのも変だったので素直に答えた。

「いいなあ、私も60ぐらいで死にたい」

今の日本で長生きしたいとはあまり思わないし、それは本心だ。ただ、私は自分が納得するまで教養が欲しいと思っていて、賢くなるまで死ねない、とも思っていた。(これをおじさんに言ったら、絶対「じゃあ一生死ねないじゃん」とか言われる、絶対そう)

そしておじさんは続ける。

「でもさあ、この間フランス語の新しい辞書を買ったんだよ。それを使って新しい本を読みたくて……死ぬと本読めないし……」

 そういうところまで私とおじさんは似ているので、笑える。