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rinsura_comのブログです

君は「国立奥多摩美術館」を知っているか

話は一昨年にさかのぼる。

当時私は「サウダーヂ」という映画が見たくてたまらなかった。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 山梨を舞台に土方の青年たちを描いた凄まじい映画なのだが(感想はリンク参照)、この映画の製作者であるグループ「空族」は方針として作品のDVD化をしておらず、見るには劇場で放映される機会を待つしかない。いやいやいやいやなる早で見たい。都内のどこかで見られないものか。困っていたところに、フォロワーの人から「国立奥多摩美術館というところでリバイバル上映をやるらしいですよ」という情報がもたらされた。これは行くっきゃない。行くぞ!

 

そしてたどり着いたのが、青梅だった。

 


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……いや、これ、どこ?

青梅市自体来たことがなかった。『怪談レストラン』のどれかに昔の青梅駅を舞台にした話があって、確か乗り過ごした電車の終着駅として青梅が出てくる。そのせいで青梅はなんとなく「最後に行き着く場所」のような気がしていたんだけど(青梅の人本当にすみません)、実際たどり着いてみると驚くほど緑が豊かで山に囲まれた場所だった。駅には「昭和の町青梅へようこそ」といった「昭和っぽさ」を売りにするキャッチコピーが貼り出されていて、レトロな映画の看板が飾られている。この時点で結構「おお、だいぶ遠くまで来たな」という印象だった(本当にすみません)。

しかし青梅には「その先」があったのである。(本当にすみません)


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軍畑。これが今回の目的、「国立奥多摩美術館」の最寄駅である。回りは山、遠くには霧がたちのぼっている。

たどり着いて腰が抜けた。改札が、ねえ。


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そこにあるのは入出場のパネルだけである。Suicaをチャージせねばならないのだが、なぜか券売機は1000円札しか対応しておらず、突っ込んだ5000円が「この紙幣はご利用になれません」というアナウンスとともに戻ってきてしまう。

そしてそれを聞いた子供が「ご利用になれません!!!!!!!」と叫んで私の横を走り去っていった。え?

そう、なぜか駅前に人が溜まっている。若い男性が自転車を停めて輪になって座り込み、「今日あっちゃんなんでいねえの?」と話し合っている。あっちゃんって誰だよ。私がおろおろする様子に「なんだこいつ」と言いたげな視線を投げてくる。気まずい。駅にやってきただけで気まずい思いをしたのは初めてだ。

とりあえずチャージしないと改札を通過できない。軍畑無人駅である。呼び出しを押すと青梅駅の駅員さんにつながった。「今手持ちが5000円札のみなんですが……」と言うと、「両替できる予定があるなら、今はそのまま出てしまってください。帰りに乗るときチャージをやり直して、出場のほうをタッチしてからもう一度入場をタッチしてもらえれば大丈夫です」と教えてくれた。「両替できる予定」。すごい。確かにGoogleマップを見ても民家ばかりで、名前が掲載されている建物がほとんどないのだ。

マジ?ここ?本当にここに国立美術館があるのか?

とりあえず歩き始めた。すごい。怖い。

 
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少し歩くと、周囲の風景はざっくり三つの言葉で言い表せることに気づく。「緑」「川」「道路」である。家もぽつぽつあるが、もれなく壁に蔦が這っているのでだいたい緑だ。道路には車線と歩道を分けるものがなく、車を気にしながら端っこを歩いたが、そもそも車も十数分歩いて数台しか通らなかった。川は水の流れが激しいようで、あちこちでごうごうと唸っている。マジで人通りは皆無だった。パンデミック以後の世界を描いた映画を撮るならここだな、と思った。

 

少し迷ったが、国立奥多摩美術館にようやくたどり着いた。壁に建物の名前がでっかく掲げられているのでわかりやすい。中に入った。


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めちゃくちゃ驚かれた。

入った瞬間、入り口にいた女性に「え!?どうして来たんですか!!??」と言われたことを鮮烈に覚えている。どうしてって……え!?

「あ、多摩美の学生さんですか!?」

違う。しかしその第一声と第二声によりこの施設が「めったに人は来ないし、来てもかなりの目的を持って勉強のために来る美大生である」ということがなんとなくわかってしまった。映画を見たくて来ました、というと、ああそうですか……と言われて受付に案内してくれた。館長らしい男性からチケットを購入する。館長もなんだかやばい。館長が着ているのはレコードのジャケットでしか見たことがないシルエットの派手なスーツで、これが彼の若さとミスマッチを起こし、結局何歳なのかよくわからなくなっている。そこでおもむろに目の前に何かの紙とボールペンを出された。

「あの、足場が悪いところがあるので、そこで転んでも自己責任ですという書類にサインしてもらっていいですか」

そんなに悪いの!!??

 「あと、今◯◯くんっていう、うちのアーティストが『ガロ』でデビューしたので、その原画展をやっています、よかったら見てください」

振り返ると、難解なイラストが壁を埋め尽くしていた。お、おう……。

これは、やばい。この時点で私は「これは何かのネタになる」と思っていた。勇気を振り絞って質問を投げる。

「すみません、ここ、本当に国立なんですか?」

「え〜〜〜……と……少なくとも日本国の国立ではないですね」

でしょうね。

(ただ信じてほしいのだけど、私はここで質問するまでもしかしたら本当に国立なのかもしれないと半分ぐらいは本気で思っていた。だって国立だよ。国立じゃないものが国立を名乗っているところを、私はこれまで見たことがなかったのである)

そこで隣にいた男性が「これそういう設定だったんすかw」と会話に入ってくる。「そんな裏設定あったんですか」「いやそういうのはないけど」という話から察するに、別に空想国家計画から発生した施設ではないらしい。そして館長は話を続けた。

「あの、ここ、国立って言ってるけど国立じゃないし、奥多摩って言ってるけどここ奥多摩じゃないし、ついでに美術館でもないんですよね」

じゃあ何!!!!!!?????????????????????

「では、上映は大宇宙スクリーンで行いますので」

大宇宙スクリーン??????????????????????????

 
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これはやべえ。

 

 
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上映までの間、建物を見て回った。館長が言っていた通り、美術館ではなく共同のアトリエと言った方が的確である。まず入ったところにロビー(写真上)があり、その奥に作業場であるガレージ、さらにその奥にスクリーン小屋があった。足場はびっくりするほど悪いわけではないが、そこかしこに製作中の作品や道具類が散らばっている。トイレは外にあり、通路が横にならないと進めないほど狭く、しかも自分でバケツで水を汲んで一回ずつタンクに水を入れないと流せないシステムだった。すごい。

ロビーではカップ麺や飲み物が売られていた。今回の映画の上映に合わせて、館長が奮発してポップコーンマシンを導入したそうな。なんかこういう風景見たことある気がするなと思ったが、おそらく幼少期によく親に連れられて怪しい祭りでエスニック系の洋服を売っていた記憶のせいだろう。薄暗いビルの間に屋台が並び、そこでナンを買ってもらって食べた思い出が蘇る。まあそれはどうでもいいことだ。しかし周囲にたむろしている人々は皆関係者のようだ。マジでアウェイか? いや敵じゃないんだけど。

 

大宇宙スクリーンは、まあ、大宇宙……大宇宙……大宇宙か?という見た目をしていた。中に入るとちょっと面白い。椅子のバリエーションがすごいのだ。パイプ椅子、キャンプ椅子、ソファ、車椅子まである。かわいい。ちょっと迷って車椅子の隣に陣取った記憶がある。この段差も手作りなのだろう。新しい木の匂いがした。


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この日は、「空族」の映画を一挙上映し、途中途中でトークショーを挟むというイベントだった。私はそのうち、トークショーと「サウダーヂ」が見られる時間を狙ってスクリーンの前に座ったのである。しかし製作者のトークショーつきだというのに、客は私以外三、四人しかいなかった。 まあこうも遠くちゃな……。この「国立奥多摩美術館」という謎空間に圧倒されていたせいもあり、このトークの内容は全然覚えていない。ただ館長らここを作った人達はだいぶ借金をしたという話、こういうアーティストが自由に作品作りや発表をできる場を維持していってほしいという空族の脚本家の方のコメントは覚えている。

 

作品の内容は、めちゃくちゃ面白かった。ぼろぼろに泣いた。

しかし……大宇宙スクリーンには一つ問題があった。壁がめちゃくちゃ薄いのだ。「この映画やたら雨のSE多いな」と思っていたが、途中からそれが外で鳴り響く川の音だと気付いた。「サウダーヂ」は山梨弁が多く出てくるのだが、川の音とも相まってセリフ若干聞き取りづらい。ただ、定員30人ちょっとのこの手作りの映画館で、できる限りよい設備を準備しようという姿勢だけはビンビンに伝わってきた。映像に関しては、とても見やすく、美しかった。

 

スクリーンを出ると、ガレージの外が真っ暗だった。確か九時台だったと思うが、とにかく周囲に明かりがないのだ。急いで帰らねばならない。ロビーへ戻ると、軽食売り場の店番に立っていたお兄さんが、見知らぬ人が歩いてきたことに驚いたのか、私をとっさに呼び止めた。

「あの……ポトフ食べていきませんか!??」

「いらないです!!」

こうして私は国立奥多摩美術館をあとにした。

 

 

帰り道が本当に怖かった。暗い。暗すぎる。しかも行きも迷ったというのに、帰りの景色はすっかり夜で、昼とは様変わりしている。人通りは相変わらずゼロ。迷っても尋ねられる人はいない。これ死ぬんじゃないかな? あまりの恐怖にでかい声で歌を歌いながら歩いていた。YUKIの「Home Sweet Home」。無意識だったが、無事に帰りてえ!!!!!!!!!!という気持ちが爆裂した選曲だった。

ようやくたどり着いた駅で、私はSuicaをチャージし、「出場」をタッチしてから「入場」をタッチして、行きのぶんを清算した。駅舎のホームには先ほど一緒に「サウダーヂ」を見ていた数人だけが立っていた。

 

「国立奥多摩美術館」がなんだったのか、私にはよく分からない。しかし、国立でもなく奥多摩にあるわけでもなく美術館ですらない謎の空間があの山の中に佇んでいるということが、意味もなく頼もしく、なんとなく嬉しいのである。

 

ちなみに、その後渋谷の映画館で「サウダーヂ」をもう一回見た。めちゃくちゃ聞き取りやすかったが、新しい木の匂いは、しなかった。

 

 

 

生きるのが少し楽になるBLレビュー

生きているとしばしば自分が許せなくなることがある。そういう時はとてもつらい。何かをしていても落ち着かない。自分はこれでいいのか、生きていてもいいのか。考え出しても答えが出るわけがない、そもそも問う意味もないような質問にとらわれてしんどい時、あなたを助けるのは素敵なBLかもしれない。以下に紹介するのは、私自身が「救われた」と思ったBLである。眠れない夜、早く起きすぎた朝、あるいは気だるい午後でも、ぜひ一度手にとってみてほしい。これらの作品が示す結末に、「この世にはこういう救いもある」と思えたなら、生きづらい気持ちはきっと少し和らぐ。

 

 本郷地下『世田谷シンクロニシティ

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

世田谷シンクロニシティ (アイズコミックス)

 

  「好き」という気持ちと「セックスしたい」という気持ちは、当然のように同じ線の上にあるものとして語られてきた。Aの次はB、1の次は2、付き合ったんだからセックス……世間にはそういう「当然の順序」がどっしりと鎮座する。「当然」とは何だろう? そこに従えない人間は、どうやって生きていけばいいんだろう?

 

『世田谷シンクロ二シティ』の主人公・大学生の高史は、恋愛として好きになるのは女性、セックスしたいと思うのは男性、という乖離に悩み続けている。舞さんという年上の彼女がいるが、セックスはしていない。それでもいいと言ってはくれているものの、彼女は明らかに体の関係を望んでおり、高史はそこに罪悪感を感じ続けている。

高史の人生を変えることになるのが、ゲイの同級生・深町との出会いだった。深町はゲイであることがばれたせいで実家とほとんど絶縁状態にあり、故郷の幼馴染に不毛な恋心を抱えたまま暮らしていた。

ひょんなことから数ヶ月の間同居することになった二人は、やがてお互いの「人にわかってもらえない」悩みを少しずつ打ち明けるようになる。

 

 恋愛的指向と性的指向のズレについて取り扱ったBLは、私はこの作品以外には見たことがない。ゲイやレズビアントランスジェンダーに関しては、近年メディアでも少しずつ取り上げられるようになってきたが、それ以外の「当然の順序」からこぼれた人たちについて取り上げたこと自体、一つの新しい功績だと言えるだろう。

セクシュアリティに「当たり前」なんて考え方はいらない。毎日変わったっていいし全員違っていていい。しかし世の中はまだ変わっておらず、テレビをつければ女性タレントが「好きなタイプはどんな男性ですか」と聞かれているし、書類一枚書くにしても「男・女」のどちらかを選ばなければいけない。どうしてこんなに決めなくてはいけないんだろう。「男」あるいは「女」に丸をつけるたびに、自分の中の何かが「不適切」なものとして削られていくような気持ちを味わったことがある人は少なくないはずだ。あなたはあなた、それだけでいいと、誰だって言われたい。でも世間はそう言ってくれない。

 世間の「当然」に苦しむ全ての人を、『世田谷シンクロニシティ』は暖かく受け止め、そのままでいいのだと断言してくれる。ラストシーンの深町のセリフを引用しよう。

「自分のこと 無理に決めなくていい

変わらなくていい 今はそれでいい

でももしいつか変わったとしても いいんだ

誰にも責められることじゃない 堂々としていろ」*1

変わらなくていい、そのままでいい。全ての人の生が、二人の大学生のささやかなラブストーリーを通じて許される。 世間と自分の葛藤を丁寧に描く、画期的な名作だ。

 

 一穂ミチ『off you go』

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

off you go (幻冬舎ルチル文庫)

 

 

結婚という制度が多くの人から求められている理由のうちの一つが、「ずっと一緒にいる保証が欲しい」ということだ。「永遠の愛」という言葉に象徴されるように、もう変わらない、ずっとこの人が自分のパートナーであり続けると社会に宣言することで得られる何かが、確かにある。

『off you go』に登場する主要人物は三人だ。BLなら普通二人ではないのかと言われるかもしれないが、三人である。

新聞社の編集室に勤める静良時とその病弱な妹・十和子は、良時と同じ新聞社の外報に勤める佐伯密と幼いころから親しく付き合っている。幼少の十和子が密と同じ病室に入院していたことから始まった縁だったが交流は長く続き、いつしか三人の絆はこの上なく大切なものになっていた。

しかし、三人は大人になり、新たな壁に直面する。男女三人が「ずっと一緒にいる」ためにはどうすればいいのだろう? 密は当然のように十和子にプロポーズし、十和子はそれを受け入れた。断る理由はなかった。男と女が結婚し、女の兄がそれを祝福する、という構図が、社会においては「当然の順序」だからだ。「かけがえのない三人」が、「兄・妹・妹の夫」に変わり、良時の、十和子の、そして密の、口に出せない感情がタイムカプセルのように埋められた。

物語は、十和子から切り出された唐突な離婚により、この感情のタイムカプセルが二十年ぶりに掘り起こされる場面で幕が上がる。「兄・妹・妹の夫」は、「かけがえのない三人」に戻り、もう一度関係の構築をやり直すことになるのだ。

一見、社会のせいで結ばれることができなかった二人の男が、女の後押しで結ばれる悲喜劇のように聞こえるかもしれないが、それは違う。彼らは終始幸福だ。三人はお互いがお互いを深く愛していて、ただ性欲も含めた恋愛的なつながりを求めていたのは、結婚した密と十和子ではなく、良時と密だったのだ。ただそれだけのことなのだ。

本作は、愛の繋がりがしなやかに姿を変える様子を我々に見せてくれる。タイトルの「off you go」、つまり「行っちまえ」が、気に食わない相手を追い払う言葉ではなく自分の手から解き放って相手の思いを何よりも尊重しようとする姿勢であるように、愛ははたから見てどのような姿をしていようと、愛だと言うなら愛なのだ。本作は「形」によって息苦しい思いをする誰かの呼吸をそっとやわらげる、絆のBLである。

 

 紀伊カンナ『雪の下のクオリア

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

雪の下のクオリア (H&C Comics CRAFTシリーズ)

 

 

 ままならない恋愛と生活をそのまま・しかしぬくもりと明るさを保って切り取ることにかけて、紀伊カンナの右に出る者はいないのではないか。ご飯を食べる。人と話す。自分の布団で眠る。そういうことの繰り返しで時間が流れるという実感が、いつか人を暖かい場所へ導くのだと、言葉にせずとも伝わってくる。そういうもんかな、そういうもんだよと、苦しい現実を目の前にした時にそう言って肩につもった雪を優しく払われるような、現実のある種のむごさと優しさの同居する一冊だ。

舞台は分厚い雪に覆われた北国(おそらく北海道)である。植物学の研究室で学ぶ苦学生の明夫は、ワンナイトラブだけを繰り返すゲイの後輩・大橋海に懐かれて辟易していた。かつて好きだった人に裏切られたことで一人の人を愛し続けることをやめてしまった海と、蒸発した父親のことを引きずりながら「男も女も興味ない」と断言する明夫。取っている行動は真逆でも、二人は愛する人が自分から離れて行ってしまった過去を忘れられずにいる。

あっさりと言ってしまえば、海がかつて好きだった人とやり直すこともないし、明夫の親が戻ってきて家族が再生することもない。もっと言えば二人が分かりやすい形で結ばれる物語でもない。それでも二人は、お互いにお互いを愛しく思い、優しくしたいと思う。長い冬が明けて春になり、雪の下にあったものがゆっくりと顔を出す。

明けない夜はない、止まない雨はないという言説も、それらの否定も今までさんざん語られてきた。でも夜も雨も一日単位の話ではないか。苦痛は大抵日々だ。今日も何もできなかったと思う日がずっと続くこと、不愉快な人間関係の渦中に身を投じざるを得ないこと、いつまで経っても変わらないことそのものが、毒素のように体に溜まって折重なり、私たちの首を絞める。今作がやんわりと示すのは、不毛な日常を繰り返す人もいつか何か明るい場所に届くのではないかという春の予感であり、その日常自体への許しなのである。

 

 

 

*1:本郷地下『世田谷シンクロニシティ集英社、2017年。199〜200ページ。

読書の秋なので手軽に読める日本中世史本を貼っていく

序:基礎的なことをやりたい人向け本 

◯そもそも日本史選択ではなかった、あるいは忘れた、あるいは勉強したが何か基本的な情報を手元で確認できる本がほしい人 

『詳説日本史研究』
詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

山川日本史教科書準拠で中身の濃さは数倍の「詳説日本史研究」があります。コラムが多いし読み応えばつぐん。↑に貼ったのはなんと今年の8月31日に出たばかりの9年ぶりの全面改訂版だそう。私が持っているのは↓の古い方です。古い方がちょっと安い。

 

詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

寝る前に毎日めくってます。

 

◯高校日本史は一通り分かるけど史料は読んだことがない人

苅米一志、日本史史料研究会『日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法』

前近代日本列島に流通していたローカライズされた漢文=変体漢文を読むための最高の本です。買って損はない。

日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法

日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法

 

 これだけだと単語は勉強しきれないので、現代語訳の吾妻鏡と原文をつき合わせながら読むなどするとなおよいかもしれない。吾妻鏡は学部ゼミの最初の史料講読に使われることが多いらしいです。(私のときはそうではなかったけど)吉川弘文館から分冊で出ているので、好きな出来事から時期を選んで買ってみても面白いと思います。

 

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

 

 本題:面白い本を読みたい

(比較的)安く読めて面白い中世本のピックアップです。いわゆる政治史の本はほぼなく、どれも中世社会のあり方に関する内容です。中世に対するイメージを自分の中で再構築するとき、社会の解像度をがんがん高めてくれる素敵な本を選びました。

「中世の最大の特徴は「暴力」「飢え」「信仰」」という清水克行さんの言葉を念頭に読んでもらうとなお面白いかと思います。なお、私の興味の範囲の関係で飢饉に関する本が多いです。ご了承ください。

 

rinriko-web.hatenablog.com

 こちらに記載した本は載せていないので、こっちの記事も参考にしてください!

 藤木久志『雑兵たちの戦場』
【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 

 戦国時代の村に焦点を当てた朝日選書三部作のうち最も有名な一冊。戦国武将は天下統一の夢を抱いて皆他国の征服に乗り出した、というイメージが世間には横行していますが、実際は全くそうではなく、彼らが奪い合っていたのはむしろ食料でした。飢餓が常態化した中世において、戦場は「口減し」の場だった……という衝撃的な内容を実証しています。

 

飢餓と戦争の戦国を行く (朝日選書)

飢餓と戦争の戦国を行く (朝日選書)

 
戦国の村を行く (朝日選書)

戦国の村を行く (朝日選書)

 

 三部作残りの二冊もぜひ一緒に読んでほしい……のですが、『飢餓と戦争の戦国を行く』はずっと品切れで、中古しかないようです……。

清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』 
大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

 

 めちゃくちゃ大好きな一冊。応永の飢饉という15世紀の日本列島を襲った未曾有の災害の一部始終を追いかけた本です。政治、気象災害、経済など、各方面から飢饉という"人災"のリアルをあぶり出す盛りだくさんな内容が大変魅力的です。飢饉は単なる天候不順による凶作ではなく、政治や経済を含めた社会のひずみが爆発した結果として発生するものだということがよく分かります。ちなみにあの一休さんが悟ったのも応永の飢饉の真っ只中だったらしい。

京都で最大限の高値で米を売るために商人がわざと運輸ルートを閉ざして飢えを促進する祭り「飢渇祭」を開き京都を作為的に飢餓に陥れた、という伝説のエピソードも収録されています。

 高野秀行、清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代
世界の辺境とハードボイルド室町時代
 

 こちらは「謎の独立国家ソマリランド」などの著作で有名な高野秀行さんと清水克行さんの対談本です。なぜタイトルが村上春樹のパロディなのかは誰にも分からない。

室町時代ソマリランドの意外な共通点など、その斜め上の視点に驚かされっぱなしの一冊。読みやすいので超オススメです。山口晃さんの絵を使った装丁がめちゃくちゃかっこいいです。

 

その清水克行さんの新刊はこちら。(買いましたがまだ全部読んでません……)

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

 

 

10月に出たばかりです!歴代室町幕府の将軍を一人一人章立てして紹介した読みやすい構成です。注目すべきは将軍ではないけれど将軍権力に大きな影響を与えた人物についてのコラムが挟まれている点で、私が大好きな足利直義についても掲載されています。直義の死因については諸説あり、(史料がないので大きな議論になる問題ではないのですが)清水説では尊氏による毒殺説が改めて推されていたのが個人的にはアツかったです。

 

 苅米一志『殺生と往生のあいだ』

 中世のキーワード「信仰」と「暴力」を兼ね備えた一冊です。中世は極端に殺生を避ける思想が発達した時代でしたが、実際には生きるために生き物を殺さねばならない局面は日々発生していましたし、人間もそこらじゅうで殺す・殺されるの戦いを繰り返していました。中世社会の矛盾を丁寧に解説していて、大変わかりやすいです。

  桃崎有一郎『平安京はいらなかった』

 衝撃的なタイトルが話題を呼んだこの本、めちゃくちゃ面白かったです。あの真四角の平安京は実は全部機能していたわけでは全くなく、ほぼ北東部しか稼動していない!ということを実証しています。「牧場・スラムとしての朱雀大路」など刺激的な目次が並んでいますね! 中国を真似て巨大な都を作ったものの、プラン先行で利用のリアルを考えなかった結果、どんどん荒廃して限られた部分しか使われなくなっていく……という前近代都市計画破綻の経過をたっぷり楽しめます!

政治的な意図によって設計されたものが人間の跋扈に全く即しておらず結局食い尽くされる流れ、最高〜〜!

勝田至『死者たちの中世』
死者たちの中世

死者たちの中世

 

 中世のお葬式について知りたい方はこちら。ちょっと前の本ですが、今年の初夏に重版されたようで、意外と店頭でもみかけます。

巻末にはなんと「中世死体遺棄年表」という付録つき。12〜13世紀の京都で観測された死体遺棄を年代順に掲載してあり、限られた用途に関して極めて便利です。

 ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』
大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)

大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)

 

 急にテイスト変わってごめんな!ほぼ近世史で恐縮ですが、16世紀の奴隷貿易に当時の日本列島はバッチリ組み込まれていて、ペルーにもゴアにもフィリピンにもポルトガルにも日本から出荷された人たちが生きていた!という壮大な人間ドキュメントです。16世紀のペルーの教会の隣にひだ襟を作って売るショップを開いていた自由民の日本人がいた、という話にはワクワクせざるを得ません。やっぱり人間が移動することは面白い!

この本、実はもっと長い本の一部を書籍化したもので、まだ続きがあるらしいので、みんなで買って続刊を促しましょう。

 田中貴子『性愛の日本中世』
性愛の日本中世 (ちくま学芸文庫)

性愛の日本中世 (ちくま学芸文庫)

 

 表紙がすでにいいですね。春日権現験記という14世紀の豪華な絵巻物の一幕で、セックス後の男女と女性の姿で顕現した神が描かれている有名なシーンです。

作者は歴史学ではなく国文学の研究者。稚児のジェンダーについて書いた文章が新鮮でとても面白い一冊です。「京女」という偏見など、短くて問題意識がはっきりした文章がいくつもまとまっているため、とても読みやすいのがありがたい。

稚児について知りたい人は松岡心平さんの本もオススメです。

 

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

 

 

 

 新しいものから古いものまで色々貼ってみました。政治史に比べ、社会史はとっつきやすくてテーマが幅広いのが魅力です。ぜひこれをきっかけに、読書の秋を中世と共にお過ごしいただきたいと思います。Have a nice 中世!

 

私とおじさん

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 仲のいいおじさんがいる。

おじさんと呼んでいるが、実際は高校時代の英語の先生だ。普通なら先生と呼ぶべきなんだろうが、私はおじさんをおじさんと呼ぶし、敬語も使わない。

おじさんはすごく不思議な人で、言語学者である。14世紀のラテン語とか、中世のフランス語とか、私にはよく分からない言葉にいつも夢中だ。勉強が好きすぎるあまり、逆に論文を一文字も書かずに大学院を中退したという過去を持つ。お金には微塵も興味を示さない人で、いつも私たちに美味しい食事をおごってくれる。どうしておごってくれるの?と尋ねたら、「自分が学生の頃は教授におごられていたから」と言っていた。でもそれは建前なんだろう。本音としては、ただ本当にみんなでご飯を食べるのが好きなのだ。テーブルの上を料理でいっぱいにして、みんなでおしゃべりするのが好きなのだ。

 

 私はずっと学校が嫌いだった。今も中高の先生に対してお世話になったとは思っていない。すごく嫌なことがたくさんあったし、それは私が悪いとか相手が悪いとかではなくて、時期と役割の問題だったんだと思う。先生というものがすごく苦手だった。目の前に先生が立っているだけで責められている気がして、勝手に涙が出てきてしまう。おかげで授業について質問しに行ったことは一度もない。

 そんな中で、おじさんとだけは普通に話すことができた。おじさんは先生というよりおじさんだったからだ。

 

おじさんは私の所属していた軽音楽部の顧問をやっていた。顧問といっても、たまにふらっと遊びに来て「うるさいからやだ」「バンドよりオーケストラがいい」などと不条理なことをつぶやいて出て行くだけの存在だった。変に説教くさいことは全く言わないところがすごく楽だった。おじさんはいい意味で自分のしたいことにしか興味がない。普通先生というものは教え子の近況を勉強とか打ち込んでいることで聞きたがるのではないかと思うのだが、私が夢中になっている中世史の話をしても「日本史興味ない」と言われる。そして本当にまじめに聞いてくれず、私の話の言葉尻から連想したラテン語をぼそぼそつぶやいて揚げ足をとる。「それどういう意味?」と聞くと語源から全部説明してくれるが、おじさんの説明の中で覚えている話は一個もない。私も自分がしたいことにしか興味がないからである。

 

私とおじさんはすごく似ていた。

好きなことしかしたくなくて、集団が苦手で、でも人と話すことは好きだった。

 

 

 「早く死にたいなあ。来年の誕生日に死にたい」

鎌倉のお寺で、庭を眺めながらおじさんがそう言った。おじさんでもそう思うんだなと思った。

おじさんには長生きして欲しかったが、おじさん相手にまじめな返事をするのも変だったので素直に答えた。

「いいなあ、私も60ぐらいで死にたい」

今の日本で長生きしたいとはあまり思わないし、それは本心だ。ただ、私は自分が納得するまで教養が欲しいと思っていて、賢くなるまで死ねない、とも思っていた。(これをおじさんに言ったら、絶対「じゃあ一生死ねないじゃん」とか言われる、絶対そう)

そしておじさんは続ける。

「でもさあ、この間フランス語の新しい辞書を買ったんだよ。それを使って新しい本を読みたくて……死ぬと本読めないし……」

 そういうところまで私とおじさんは似ているので、笑える。

 

怒りは悪なのか、それは個人的な問題なのか

「不快にさせたことをおわびする」

「誤解を招く発言があったことをおわびする」

 

これらは何かと良く聞くフレーズで、「不適切」な言動があったときに批判された人が口にしがちである。謝罪の形を取ってはいるが内実としては全く謝罪になっていない。

なぜならどちらも「相手の感性のせいにしている」から。裏を返せば、「あなたが不快になっていなければ不適切ではなかった」「あなたがわたしの意図を汲んでくれていれば不適切ではなかった」と言っていることになる。不適切であるかないかの判断基準がまるで相手個人にあるかのような言い方だ。それは問題の矮小化である。不適切というのは、「あなたにとっての不適切」ではなく「社会にとっての不適切」なのだ。

例えば、今回話題になったバニラエアの事件では、副社長がテレビに出て「不快な気持ちにさせてしまい申し訳ない」と述べていた。タラップを自力で上り下りさせられた方が感じたであろう憤慨や不快感を労ってしかるべきだが、その憤慨や不快感は間違いなく「歩ける者だけを対象にしたシステムによって自らが"弾かれた"」という事実が原因だし、それは社会全体の問題に他ならない。すなわち、「健常者はスムーズに利用できるが身障者は健常者に比べてはるかに大きな負担を負わなければ利用できない、あるいはまったく利用できない」システムが当たり前のように稼働できてしまっていることに対する問題だ。バニラエアは交通に関する企業として必須であるはずの多様な人々を受け入れる努力を怠り、歩ける者だけを相手にしたサービス提供という社会的に許されないものを展開したことに対して責任を取らねばならない。

この事件はタラップを自力で上り下りした人の個人的な問題ではない。この人物をクレーマーだと言って叩いている人たちは自分も社会の構成員として責任があることを思い出すべきだと思う。

 

最近「怒りは悪なのか?」ということを、ずっと考えている。

anond.hatelabo.jp

これは今井絵理子が「批判なき政治をめざす」と発言して問題になった時に出たブログだ。ここでの話題は「批判」という言葉の誤用が広まっていることであるが、同時に「和を乱すこと自体が悪」という発想の存在も指摘していて、読みながら色々考えていた。

学科の教授が「最近の学生には良くも悪くも怒りがない」と話していたのを思い出す。私自身も、怒りを避けようとする社会の風潮は実際に存在すると思う。確かに怒りは、難しい。現状に不満があるから怒りがあるわけで、その場をかき回す感情であることは間違いない。

だが、世の中には乱してはいけない和しかないのか? 絶対にそんなことはない。むしろ乱して「現状には問題がある」ということを多くの人に理解させねばならない「和」もたくさんある。それは誰かにとっての「和」であるというだけで、別の誰かにとってはまったく「和」ではないからだ。マジョリティーにとって最適化されたものが不便であるとき、声をあげても取り上げてもらえない場合は極めて多い。ならばもっと強く怒りの声を上げるしかないだろう。黙っていては「同意」と受け取られかねない。たとえ現状が好転しなくても、これは共生にふさわしくない、と抗議すること自体には多大な意味がある。*1

すべての人にとって最良の状態、と言える状態は存在しない。だからこそ、負担は分け合い、より平等にお互いを尊重しあえる社会を目指さねばならない。「目指す」ことが大事なのだ。現状の社会的な非対称性を埋めねばならない、それはマジョリティーが無視していい"溝"ではない。

 

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

 

 「ソーシャル・サファリング」という考え方がある。他者が社会によって苦しめられる時、その責任は社会の構成員にも存在する、という発想である。私はこの思想に全面的に同意する。

人文学は他者の人生について想像する学問だ。自分が体験したことのない他人の人生について常に考え、怒らねばならないと思ったら怒る。何度も間違え、人を傷つけた経験があるぶん、そういう人間でありたいと思う。

*1:「抗議」は日本国語大辞典によると「反対の意見や苦情を、相手に対し主張すること。異議を唱えること。」であり、ここでは社会に対する怒りを正式に表明する行動が抗議に該当すると考えている。なお、批判は同じく日国によれば「批評して判断すること。物事を判定・評価すること。」である。

左門くんはサモナーが終わってしまった

※ネタバレ注意

 

 

 

左門くんはサモナー」が終わってしまった。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

 沼駿「左門くんはサモナー」は、ジャンプで連載されていたコメディ漫画だ。こういう記事を書くぐらいには、私はこの漫画に強い思い入れを持っていて、ジャンプの読者アンケートでは毎週一位に指定していた。

終わる兆候は前から少しずつ現れていた。やけに核心に近づいた話が増えたり、伏線がみるみるうちに回収されていったりする中で、毎週もしかしてこれは、いやそんなことはない、とずっと気をもんでいた。何より、順位が芳しくなかった。

 

 終わってしまった。正直、もっとこの作品を読んでいたかった。唯一の慰めは、最終回が白眉の仕上がりであったことである。

 

 上に挙げた記事にも書いた通り、左門くんはサモナーの主人公はひねくれていて卑屈で友達がいない「カス虫」左門くんだ。そして彼の「相棒」は、その優しさから「仏」と呼ばれる天使ヶ原さんである。それだけ聞くと善悪二元論で塗り分けてしまえそうなキャラクター設定に見えるが、そう見えるのはお互いの解像度が低いからだ。物語が進むにつれ、二人はお互いを知り、経験を共有し、どんな人間なのかを知っていく。人が白黒ぱっきりと割るわけではないことを理解してゆく。(詳しくは上の記事を読んでほしい)

 

 最終回周辺では怒涛の勢いで物語が回収されていった。キーポイントの一つが「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である!」という天使ヶ原さんのモノローグだが、これは実は最終話では繰り返されない。最終話の一話手前で反復され、最終話は左門くんと天使ヶ原さんが二人で「負けたら地獄に墜とされる」という無謀な戦争へ旅立つ場面で終わっている。

二人はきっとこのあと負ける。そして、地獄に堕ちる。

それがあまりにもエモーショナルで悲しくて、でも明るくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。

 

 

 左門くんは高校を卒業してからさらにストイックに修行に励み、その結果地獄の三大支配者に目をつけられた。戦いに勝たねば地獄に堕ちることになる。その戦争を控えたタイミングで左門くんが算文町に戻ってきたのは、おそらく敗北を視野に入れたからだろう。死を迎える可能性を考えて高校時代の思い出の場所にやってきた左門くんは、天使ヶ原さんと偶然再会する。天使ヶ原さんからかつての友人たちの近況を聞く左門くんは、以前より角が取れた印象だ。

「僕もいよいよ地獄に墜とされるらしい」

左門くんが天使ヶ原さんにそう告げると、天使ヶ原さんは軽々と「私も一緒に行ってあげるよ」と微笑む。「心中じゃない」と補足するが、人の世の理が悪魔相手に通じるわけではなく、失敗すれば天使ヶ原さんも巻き添えを食うだろう。それでも彼女は、これからどうなったって別にいいよ、とでも言うように、左門くんの戦争に同行すると申し出るのだ。「善は急げだよ」天使ヶ原さんは悪魔との戦争についてそう言う。これから始まるのは左門くんの身勝手な生き急ぎが招いた自滅の戦争なのに、天使ヶ原さんからすれば「左門くんの味方になってやる」ことは「善」なのだ。それを聞いて左門くんは、初めて天使ヶ原さんを褒める。「君って、悪い女だな」--ぱっと見では悪口にしか聞こえないが、これは確かに褒め言葉なのだ。今までずっと「いい子」扱いしかされてこなかった天使ヶ原さんが、「悪い女」と呼ばれて喜んでいるシーンがある。左門くんはそれを覚えていて、わざわざ天使ヶ原さんをそう称するのだ。左門くんの人生のうち、天使ヶ原さんほど多くの経験を共有した相手はいなかった。二人の間だけで伝わる特別な意味が、この一言には込められている。

 

 そして二人は地獄へ赴く。きっと二人は負けて地獄へ堕ちる。なぜなら「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である」と最初から断言されているから。

 

 自分の道を各々見つける友人たちの姿が示された。出会ったときは最悪の仲だった二人の間に、唯一無二の特別な関係が築かれたこともはっきりと示された。そして二人は、人には触れない場所へ、誰にも知られないうちに消えていく。絶望ではなく、信頼と好意によって。

それがどうしようもなく切ないのだ。

 

 左門くんと天使ヶ原さんの関係は、友達でも恋人でもない。言葉にできない、「白黒つけられない」ものだ。そんな二人が姿を消すことは、きっとハッピーエンドでもバッドエンドでもない。終わりが「良い」か「悪い」か、白黒意味付けする必要はない。

 

 「左門くんはサモナー」は本当に良い漫画だった。面白かった。ここで終わってしまうのは惜しいと心から思う。ここまで描いてくれた沼駿先生に感謝と慰労の気持しかない。また沼駿先生の新作が読みたいともちろん心から思うが、今はただ、左門くんはサモナーという名作についてじっと感傷に浸りたい。

 

 

 

プリパラ劇中歌レビュー(2) 私は私の道を行く

 

rinriko-web.hatenablog.com

  前回(といっても1年半前)に書いた記事がわりと好評であることに今更気付かされたため、続きを執筆してみようという気になった。

プリパラの劇中歌のクオリティは一期から極めて高いものだったが、前回から1年半の時を経て素晴らしい楽曲がさらに多数生まれてきている。今回もいかにプリパラの世界を彩るアイドルソングがウェルメイドなものか、紹介していきたい。

 

 

ドロシー&レオナ・ウェスト「Twin mirror♥compact」

 歌詞はこちら

 前回の記事でも述べた通り、一人称が「僕」の女の子・ドロシーと、一人称が「私」の女装少年・レオナは、ドレッシングパフェで活動する極めて仲のいい双子である。一期では「僕とレオナは二人で一人だから」と言ってらぁらとみれぃのチームに入ろうとするなど、お互いをお互いの半身と見なしてきたことが分かる。

そんな二人にも、転機が訪れた。二期の終盤、レオナは紫京院ひびき率いる天才チームへの誘いを受け、ドロシーと初めて異なるグループに属することを自ら選んだのだ。

今まで何でも一緒にやってきて、何でも共有してきた双子が、ついに違う場所に立つ。その痛みは我々には想像もつかないほど大きく、衝撃的だったことだろう。そのため、二人はどうしても儀式を必要とした。それがこの「Twin mirror♥compact」だったのである。

Twin mirror♥compact ハートとハートがchu!

少し怖いけどバイバイ(見つめてバイバイ)

Twin mirror 覗き込んで 涙の跡ふいて

離れていたって『LO♥VE』繋がる!

twin mirror 開いたら 勇気を交換こ

あのね気持ちは一緒さ(だから大丈夫)

一人になるのは 悲しいことじゃない

おニューな二人で また はしゃごう! 

  鏡のついたコンパクトは、開けば二枚貝のように片方ずつが違うものを映す。しかし結局は一つのコンパクトなのだ。お互い違う場所で涙の跡を映したとしても、鏡の向こうでは愛で繋がっている。

 双子は離れたことがなかった。だからこそ、「離れていても繋がっている」ことをお互い再確認しなければならなかったのだ。そしてそれは、二人にとってまたとない飛躍の機会でもあった。

似てるようで似てないheart 鏡に映す未来

ほらね 僕は僕 私は私で

 この歌詞を歌った時、ドロシーとレオナは「二人で一人」だっただろうか。きっと違う。お互いがもっと素晴らしいアイドルになるために、むしろ「一人が二人」になったのだ。意図的に同じものとして生きてきた二人は、それを一度やめ、「僕は僕」「私は私」として「似てるようで似てない」 ことを言葉にした。すさまじい勇気だと思う。でもその別れの痛みは成長痛だ。再び同じ場所へ戻ってきた時のドロシーとレオナは、傷だらけの強靭な身体で、世界一軽やかに踊る。

 

 

ちゃん子「Just My Chance Call」

 歌詞のリンクを貼りたいのだが、この音源は昨年春の映画のDVD特典として収録されており、歌詞サイトに掲載がない。残念だが各自DVDを買うなり借りるなりで鑑賞してほしい。

そういう歌詞のリンクを貼れない曲でありながらここで紹介せざるを得なかったのは、この曲がそれだけ伝説的だからである。曲を歌う「ちゃん子」は、その名の通りの女の子だ。今の美醜の基準で言うなら、いわゆる「アイドルにはなれない」容姿の持ち主である。実際作中では、クールで天才肌のキャラクター・そふぃの親衛隊として登場している。

しかし、しかしだ。プリパラの合言葉は「み〜んなトモダチ! み〜んなアイドル!!」なのである。みんなアイドルなのだ。そう、ちゃん子はアイドルだった。誰にも似ていない、誰も真似できない圧巻のパフォーマンスを携えて、ステージに上がる。ラストのサビを引用しよう。

Nobody beats the me! 譲れないのは glamorousなChance call!

Fight Back 弱気 教えてあげる 誰が最強か

死ぬ気でかかってこい

勝つ気でかかってこい

暴れて! 私の愛! Come on!!

 この曲が披露されたのは、映画でアメリカの地下ファイトクラブに送られてしまったそふぃ親衛隊の面々が、「勝ち抜かなければ一生ここから出られない」と言われ、全員の命運が託されたちゃん子が女レスラーとの戦いに挑む……という、女児アニメにしてはハードコアすぎる展開の最中であった。

 サビだけで雑魚はふっとびそうな圧倒的パワーがある。なんたって「教えてあげる 誰が最強か」「死ぬ気でかかってこい 勝つ気でかかってこい」が連続して突きつけられるのだ。そこにあるのは力と力のぶつかり合いだが、同時にそれは暴れだしたら止まらない「私の愛」であり、その「愛」とはまぎれもなくアイドルのアイなのだ。

 そして「Nobody beats the me!」である。ただのmeではない。「the me」なのだ。唯一無二の私を生きる、こんなこと私にしかできない、他のヒョロいアイドルどもとは一味ちげえんだ。そういう気概が、たった一単語でビンビンに伝わって来る。

 「太っている」ことは「美しくない」と、誰が決めたのだろうか? そんなものは単なる文化の刷り込みだ。だってちゃん子はこんなにも美しい。仲間のために敵を粉砕し、勝利のリズムで四股を踏みながらグラマラスに踊り続ける、彼女ほどかっこいいアイドルはいない。プリパラは、あらゆる価値観を受け入れるのと同時に、たくさんの新しい美を生み出す場所なのである。それがきっと、今日も誰かを救っているはずだ。

 

UCCHARI BIG-BANGS「愛ドルを取り戻せ!」

 歌詞はこちら

三期最大の衝撃であった、うっちゃりビッグバンズの新曲である。アイドルのアイは、つまり愛なのだ。うっちゃりとは土俵際から巻き返す相撲の逆転技のことで、まさに神アイドルグランプリの敗者復活枠からよじのぼってきた気概が込められている。

まずメンバーが濃い。前述のちゃん子に加え、エキセントリックな天才デザイナー・北条コスモと、コスモの学生時代からの親友にしてプリパラ一はみ出た魅力を持つ美術教師・黄木あじみがチームになったのだ。この三人からドロップされたのがメタルだなんて、聞く前にお腹いっぱいである。

歌詞は極めて感覚的だ。韻を織り交ぜながら語呂合わせと勢いで語られる力強いサビの中に、あじみの際限ない美術ダジャレが振りかけられる。その中で語られるのは、「私は私」という意思なのだ。

翼の折れたヒロインたち

傷だらけのHeart & soul

それでも空を目指すんでしょ

誰にも似てない自分だけの青空

時代の風を揺らすんなら

不毛の大地に 咲かせようよアイデンティティ

  普通とはなんだろう。きっとそんな価値基準に意味はない。うっちゃりビッグバンズが目指すのはいつだってオリジナルだ。「誰にも似てない自分だけの青空」は、分厚い雲を自ら切り開いた先にある。

 だからこそ三人は世紀末の空へ飛翔するメイキングドラマを作ったのだろう。時代の風が自分たちと違う色をしていて、その流れがめちゃくちゃ強かったとしても、それをぶち抜いて揺らして個性を開花させる。アイドルになるために、愛以外何も必要ではない。土俵際はむしろチャンス。うっちゃりで世界が変わるなら、うっちゃりするしかないのだ。

  

 

北条そふぃ「Red Flash Revolution」

歌詞はこちら

映画「プリパラ み~~んなでかがやけ!キラリンスターライブ」でお披露目になった北条そふぃのソロ曲である。

この映画と北条そふぃというアイドルについて考えるとき、ひとつの騒動について触れねばならない。それは二期のエンディング曲「胸キュンラブソング」のとあるカットについて、BPO放送倫理・番組向上機構)から批判が寄せられたことである。その「とあるカット」こそ、そふぃが肩ひものはだけたランジェリーのようなワンピースをまとった絵だった。

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批判が来たのち、そのカットはなんとオーバーオールの肩ひもをはだけた漁師ルックのそふぃに差し替えられた。「肩ひもがはだけている」ことを批判されたので、逆にそこだけは貫き通したプリパラの「抵抗」は、極めて鮮烈に映った。

これは公式になんのソースもないので「私はそう受け取った」というだけの話だが、おそらくプリパラ製作サイドはこの事件について相当根に持っているのだと思う。確信に至ったのは、映画でそふぃが背中や腹がばっくりと開いた極めてセクシーなドレス姿を披露したことだ。ステージで踊るときには違う衣装に着替えるのに、わざわざステージに登場するシーンで挑発的なまでにセクシーなドレスをまとうというのは、明らかに地上波でやって批判されたことを映画館でやり返してやる、という強い反抗心だった。(さらに映画では白い下着風のワンピースを着たちゃん子がセクシーに椅子にもたれるシーンが挿入される。これもまた「性」を遠ざける人々への挑戦なのだと思う)

前置きが長くなった。妖艶な姿で現れたそふぃが歌い出すのがこちらの「Red flash revolution」である。音楽的なことは正直あまりわからないのだが、曲調はキューティーハニーのテーマ曲を思い出させる。そう、キューティーハニーと言えばセクシーな女の子が戦う古典的人気作品だ。プリパラはそふぃという美神を通じ、セクシーであることもまた女の子が選べる楽しい選択肢なのだと主張しているのではないか。

救ってあげるわ! 解放しちゃえ!

さあ、鳥籠なんてbreak out  革命のRed Flash

最後のこの一節には、プリパラという仕組みが何気ない顔で抱える巨大な許しが現れている気がしてならない。プリパラではなりたい姿になっていい。求めるものに手を伸ばすことが許されている。元々アイドル像に縛られてきたそふぃが、今度はせせこましい価値観に囚われる「小鳥ちゃんたち」を救うのだ。そういうプリパラの強さを見せつける、系譜を感じる一曲である。

 

南みれぃ「TRIal Heart~恋の違反チケット~」

歌詞はこちら

この曲は「南みれぃ」「弁護士みれぃ」「検事みれぃ」の三つに分岐したみれぃが歌唱するミュージカルめいたロックチューンだ。パラレルワールドでどうやら恋に落ちたらしい南みれぃをめぐり、二人の法の番人=みれぃが裁判で争う。アイドルに恋愛は許されるのか? 気持ちに嘘をつくのはよくないわ!と微笑む弁護士みれぃ、その主張には根拠がない!と畳み掛ける検事みれぃ。ライブシーンでは三人のみれぃが歌い踊る極めて不思議な光景が繰り広げられる。

ぶりっ子と呼ばれる質の人が嫌われるように、コミュニケーションに関しては「一元的であること」が重視される場合が多い。素直だとか腹を割って話すとか、「本物の自分を見せる」ということがそのまま相手への信頼を意味する状況は頻繁にやってくる。

 みれぃの分裂をめぐるストーリーには、一期の名エピソード「ぷりのままで」が極めて重要だ。アイドルとしてのみれぃは本当の自分ではないのではないか?と惑うみれぃは、最終的に「どちらも私なのだ」という結論を見つけることになる。

そう、全てみれぃなのだ。みれぃでいいのだ。彼女の心のやわい部分を暖かく認めて想いを遂げさせようとする弁護士みれぃも、ルールを守ることに至上の価値を認めて厳しく自律を迫る検事みれぃも、どちらもみれぃなのである。彼女は将来何になるのかまだ決めかねているし、異なる姿を行き来する。その揺らぎは素敵でポップで限りなく魅力的だ。ぶりっ子だとか本心じゃないとか、他人が想定する「本物」などに価値はない。

 

トリコロール「Neo Dimension GO!!」

歌詞はこちら

この曲を初めて劇場で聴いた時、度胆を抜かれた。トリコロールが「完成」してしまった、と思い、打ち震えたのである。

トリコロールのデビュー曲である「Mon Chou Chou」は確かに名曲であるが、時期の焦りやメイキングドラマの強引さも含め、トリコロールとしての「お披露目」であり「自己紹介」としての側面が大きかったように思う。それぞれの良いところを持ち寄って、自分たちを説明するイントロダクションだった。

ところが、Neo Dimension GO!!のトリコロールは、巡り合った劇場を完璧に支配してみせる「真骨頂」であり、まさに今までより次元が一つ上なのである。

その名はプリパイレーツ号 星より輝くBODY

唯一無二の海賊船 荒波を蹴散らし

遥か彼方 伸びるトリコロールライン

自由に生きるのが使命よ

NEO DIMENSION 生んで 広げて 進めGO!!

Neo Dimension GO!!は、並行宇宙のひびき・ファルル・ふわりが宇宙海賊の気概をダイナミックなハーモニーで歌い上げる一曲だ。思えばこの三人の関係は奇妙なものだった。トラウマを抱えながら自らのエゴでふわりを選びふわりを捨て、ファルルに憧れて肉体も捨てようとしたひびき、ひびきとの関係に苦しみながらもひびきを愛し抜き、強引な手段を使ってでもひびきが自分の触れられない領域へ去ろうとすることを阻止したふわり、そして二人の想いを暴力的なまでに受けながら微笑み続けるファルル。「嘘」と「本当」でねっとりと絡みついたこの三人がチームになれるとは、正直思わなかった。それでも三人は、愛によって三人でステージに立つことを選ぶに至った。

Mon Chou Chouでも繰り返し現れる言葉だが、もうこの三人に嘘も本当も関係ない。大事なのはトリコロールが「唯一無二」であることだけだ。過去に囚われるために使える時間などもはやない。全てを噛み締め、乗り越えながら、情熱のままに求めるものを追いかける自由さを手にいれたトリコロールの、最も完成された演劇。それがNeo Dimension GO!!なのだ。上演場所はこの世で最も広い場所がふさわしい。やはり、宇宙である。

 

 

今回はここまでで筆を置くことにする。現在シリーズ4期となる「アイドルタイムプリパラ」が放映中だが、個人的にはドレッシングパフェの新曲を心待ちにしている。この先もプリパラというコンテンツへ全面的な信頼を寄せ、追いかけていきたい所存だ。