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巣矢倫理子のブログです

私とおじさん

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 仲のいいおじさんがいる。

おじさんと呼んでいるが、実際は高校時代の英語の先生だ。普通なら先生と呼ぶべきなんだろうが、私はおじさんをおじさんと呼ぶし、敬語も使わない。

おじさんはすごく不思議な人で、言語学者である。14世紀のラテン語とか、中世のフランス語とか、私にはよく分からない言葉にいつも夢中だ。勉強が好きすぎるあまり、逆に論文を一文字も書かずに大学院を中退したという過去を持つ。お金には微塵も興味を示さない人で、いつも私たちに美味しい食事をおごってくれる。どうしておごってくれるの?と尋ねたら、「自分が学生の頃は教授におごられていたから」と言っていた。でもそれは建前なんだろう。本音としては、ただ本当にみんなでご飯を食べるのが好きなのだ。テーブルの上を料理でいっぱいにして、みんなでおしゃべりするのが好きなのだ。

 

 私はずっと学校が嫌いだった。今も中高の先生に対してお世話になったとは思っていない。すごく嫌なことがたくさんあったし、それは私が悪いとか相手が悪いとかではなくて、時期と役割の問題だったんだと思う。先生というものがすごく苦手だった。目の前に先生が立っているだけで責められている気がして、勝手に涙が出てきてしまう。おかげで授業について質問しに行ったことは一度もない。

 そんな中で、おじさんとだけは普通に話すことができた。おじさんは先生というよりおじさんだったからだ。

 

おじさんは私の所属していた軽音楽部の顧問をやっていた。顧問といっても、たまにふらっと遊びに来て「うるさいからやだ」「バンドよりオーケストラがいい」などと不条理なことをつぶやいて出て行くだけの存在だった。変に説教くさいことは全く言わないところがすごく楽だった。おじさんはいい意味で自分のしたいことにしか興味がない。普通先生というものは教え子の近況を勉強とか打ち込んでいることで聞きたがるのではないかと思うのだが、私が夢中になっている中世史の話をしても「日本史興味ない」と言われる。そして本当にまじめに聞いてくれず、私の話の言葉尻から連想したラテン語をぼそぼそつぶやいて揚げ足をとる。「それどういう意味?」と聞くと語源から全部説明してくれるが、おじさんの説明の中で覚えている話は一個もない。私も自分がしたいことにしか興味がないからである。

 

私とおじさんはすごく似ていた。

好きなことしかしたくなくて、集団が苦手で、でも人と話すことは好きだった。

 

 

 「早く死にたいなあ。来年の誕生日に死にたい」

鎌倉のお寺で、庭を眺めながらおじさんがそう言った。おじさんでもそう思うんだなと思った。

おじさんには長生きして欲しかったが、おじさん相手にまじめな返事をするのも変だったので素直に答えた。

「いいなあ、私も60ぐらいで死にたい」

今の日本で長生きしたいとはあまり思わないし、それは本心だ。ただ、私は自分が納得するまで教養が欲しいと思っていて、賢くなるまで死ねない、とも思っていた。(これをおじさんに言ったら、絶対「じゃあ一生死ねないじゃん」とか言われる、絶対そう)

そしておじさんは続ける。

「でもさあ、この間フランス語の新しい辞書を買ったんだよ。それを使って新しい本を読みたくて……死ぬと本読めないし……」

 そういうところまで私とおじさんは似ているので、笑える。

 

怒りは悪なのか、それは個人的な問題なのか

「不快にさせたことをおわびする」

「誤解を招く発言があったことをおわびする」

 

これらは何かと良く聞くフレーズで、「不適切」な言動があったときに批判された人が口にしがちである。謝罪の形を取ってはいるが内実としては全く謝罪になっていない。

なぜならどちらも「相手の感性のせいにしている」から。裏を返せば、「あなたが不快になっていなければ不適切ではなかった」「あなたがわたしの意図を汲んでくれていれば不適切ではなかった」と言っていることになる。不適切であるかないかの判断基準がまるで相手個人にあるかのような言い方だ。それは問題の矮小化である。不適切というのは、「あなたにとっての不適切」ではなく「社会にとっての不適切」なのだ。

例えば、今回話題になったバニラエアの事件では、副社長がテレビに出て「不快な気持ちにさせてしまい申し訳ない」と述べていた。タラップを自力で上り下りさせられた方が感じたであろう憤慨や不快感を労ってしかるべきだが、その憤慨や不快感は間違いなく「歩ける者だけを対象にしたシステムによって自らが"弾かれた"」という事実が原因だし、それは社会全体の問題に他ならない。すなわち、「健常者はスムーズに利用できるが身障者は健常者に比べてはるかに大きな負担を負わなければ利用できない、あるいはまったく利用できない」システムが当たり前のように稼働できてしまっていることに対する問題だ。バニラエアは交通に関する企業として必須であるはずの多様な人々を受け入れる努力を怠り、歩ける者だけを相手にしたサービス提供という社会的に許されないものを展開したことに対して責任を取らねばならない。

この事件はタラップを自力で上り下りした人の個人的な問題ではない。この人物をクレーマーだと言って叩いている人たちは自分も社会の構成員として責任があることを思い出すべきだと思う。

 

最近「怒りは悪なのか?」ということを、ずっと考えている。

anond.hatelabo.jp

これは今井絵理子が「批判なき政治をめざす」と発言して問題になった時に出たブログだ。ここでの話題は「批判」という言葉の誤用が広まっていることであるが、同時に「和を乱すこと自体が悪」という発想の存在も指摘していて、読みながら色々考えていた。

学科の教授が「最近の学生には良くも悪くも怒りがない」と話していたのを思い出す。私自身も、怒りを避けようとする社会の風潮は実際に存在すると思う。確かに怒りは、難しい。現状に不満があるから怒りがあるわけで、その場をかき回す感情であることは間違いない。

だが、世の中には乱してはいけない和しかないのか? 絶対にそんなことはない。むしろ乱して「現状には問題がある」ということを多くの人に理解させねばならない「和」もたくさんある。それは誰かにとっての「和」であるというだけで、別の誰かにとってはまったく「和」ではないからだ。マジョリティーにとって最適化されたものが不便であるとき、声をあげても取り上げてもらえない場合は極めて多い。ならばもっと強く怒りの声を上げるしかないだろう。黙っていては「同意」と受け取られかねない。たとえ現状が好転しなくても、これは共生にふさわしくない、と抗議すること自体には多大な意味がある。*1

すべての人にとって最良の状態、と言える状態は存在しない。だからこそ、負担は分け合い、より平等にお互いを尊重しあえる社会を目指さねばならない。「目指す」ことが大事なのだ。現状の社会的な非対称性を埋めねばならない、それはマジョリティーが無視していい"溝"ではない。

 

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

 

 「ソーシャル・サファリング」という考え方がある。他者が社会によって苦しめられる時、その責任は社会の構成員にも存在する、という発想である。私はこの思想に全面的に同意する。

人文学は他者の人生について想像する学問だ。自分が体験したことのない他人の人生について常に考え、怒らねばならないと思ったら怒る。何度も間違え、人を傷つけた経験があるぶん、そういう人間でありたいと思う。

*1:「抗議」は日本国語大辞典によると「反対の意見や苦情を、相手に対し主張すること。異議を唱えること。」であり、ここでは社会に対する怒りを正式に表明する行動が抗議に該当すると考えている。なお、批判は同じく日国によれば「批評して判断すること。物事を判定・評価すること。」である。

左門くんはサモナーが終わってしまった

※ネタバレ注意

 

 

 

左門くんはサモナー」が終わってしまった。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

 沼駿「左門くんはサモナー」は、ジャンプで連載されていたコメディ漫画だ。こういう記事を書くぐらいには、私はこの漫画に強い思い入れを持っていて、ジャンプの読者アンケートでは毎週一位に指定していた。

終わる兆候は前から少しずつ現れていた。やけに核心に近づいた話が増えたり、伏線がみるみるうちに回収されていったりする中で、毎週もしかしてこれは、いやそんなことはない、とずっと気をもんでいた。何より、順位が芳しくなかった。

 

 終わってしまった。正直、もっとこの作品を読んでいたかった。唯一の慰めは、最終回が白眉の仕上がりであったことである。

 

 上に挙げた記事にも書いた通り、左門くんはサモナーの主人公はひねくれていて卑屈で友達がいない「カス虫」左門くんだ。そして彼の「相棒」は、その優しさから「仏」と呼ばれる天使ヶ原さんである。それだけ聞くと善悪二元論で塗り分けてしまえそうなキャラクター設定に見えるが、そう見えるのはお互いの解像度が低いからだ。物語が進むにつれ、二人はお互いを知り、経験を共有し、どんな人間なのかを知っていく。人が白黒ぱっきりと割るわけではないことを理解してゆく。(詳しくは上の記事を読んでほしい)

 

 最終回周辺では怒涛の勢いで物語が回収されていった。キーポイントの一つが「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である!」という天使ヶ原さんのモノローグだが、これは実は最終話では繰り返されない。最終話の一話手前で反復され、最終話は左門くんと天使ヶ原さんが二人で「負けたら地獄に墜とされる」という無謀な戦争へ旅立つ場面で終わっている。

二人はきっとこのあと負ける。そして、地獄に堕ちる。

それがあまりにもエモーショナルで悲しくて、でも明るくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。

 

 

 左門くんは高校を卒業してからさらにストイックに修行に励み、その結果地獄の三大支配者に目をつけられた。戦いに勝たねば地獄に堕ちることになる。その戦争を控えたタイミングで左門くんが算文町に戻ってきたのは、おそらく敗北を視野に入れたからだろう。死を迎える可能性を考えて高校時代の思い出の場所にやってきた左門くんは、天使ヶ原さんと偶然再会する。天使ヶ原さんからかつての友人たちの近況を聞く左門くんは、以前より角が取れた印象だ。

「僕もいよいよ地獄に墜とされるらしい」

左門くんが天使ヶ原さんにそう告げると、天使ヶ原さんは軽々と「私も一緒に行ってあげるよ」と微笑む。「心中じゃない」と補足するが、人の世の理が悪魔相手に通じるわけではなく、失敗すれば天使ヶ原さんも巻き添えを食うだろう。それでも彼女は、これからどうなったって別にいいよ、とでも言うように、左門くんの戦争に同行すると申し出るのだ。「善は急げだよ」天使ヶ原さんは悪魔との戦争についてそう言う。これから始まるのは左門くんの身勝手な生き急ぎが招いた自滅の戦争なのに、天使ヶ原さんからすれば「左門くんの味方になってやる」ことは「善」なのだ。それを聞いて左門くんは、初めて天使ヶ原さんを褒める。「君って、悪い女だな」--ぱっと見では悪口にしか聞こえないが、これは確かに褒め言葉なのだ。今までずっと「いい子」扱いしかされてこなかった天使ヶ原さんが、「悪い女」と呼ばれて喜んでいるシーンがある。左門くんはそれを覚えていて、わざわざ天使ヶ原さんをそう称するのだ。左門くんの人生のうち、天使ヶ原さんほど多くの経験を共有した相手はいなかった。二人の間だけで伝わる特別な意味が、この一言には込められている。

 

 そして二人は地獄へ赴く。きっと二人は負けて地獄へ堕ちる。なぜなら「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である」と最初から断言されているから。

 

 自分の道を各々見つける友人たちの姿が示された。出会ったときは最悪の仲だった二人の間に、唯一無二の特別な関係が築かれたこともはっきりと示された。そして二人は、人には触れない場所へ、誰にも知られないうちに消えていく。絶望ではなく、信頼と好意によって。

それがどうしようもなく切ないのだ。

 

 左門くんと天使ヶ原さんの関係は、友達でも恋人でもない。言葉にできない、「白黒つけられない」ものだ。そんな二人が姿を消すことは、きっとハッピーエンドでもバッドエンドでもない。終わりが「良い」か「悪い」か、白黒意味付けする必要はない。

 

 「左門くんはサモナー」は本当に良い漫画だった。面白かった。ここで終わってしまうのは惜しいと心から思う。ここまで描いてくれた沼駿先生に感謝と慰労の気持しかない。また沼駿先生の新作が読みたいともちろん心から思うが、今はただ、左門くんはサモナーという名作についてじっと感傷に浸りたい。

 

 

 

プリパラ劇中歌レビュー(2) 私は私の道を行く

 

rinriko-web.hatenablog.com

  前回(といっても1年半前)に書いた記事がわりと好評であることに今更気付かされたため、続きを執筆してみようという気になった。

プリパラの劇中歌のクオリティは一期から極めて高いものだったが、前回から1年半の時を経て素晴らしい楽曲がさらに多数生まれてきている。今回もいかにプリパラの世界を彩るアイドルソングがウェルメイドなものか、紹介していきたい。

 

 

ドロシー&レオナ・ウェスト「Twin mirror♥compact」

 歌詞はこちら

 前回の記事でも述べた通り、一人称が「僕」の女の子・ドロシーと、一人称が「私」の女装少年・レオナは、ドレッシングパフェで活動する極めて仲のいい双子である。一期では「僕とレオナは二人で一人だから」と言ってらぁらとみれぃのチームに入ろうとするなど、お互いをお互いの半身と見なしてきたことが分かる。

そんな二人にも、転機が訪れた。二期の終盤、レオナは紫京院ひびき率いる天才チームへの誘いを受け、ドロシーと初めて異なるグループに属することを自ら選んだのだ。

今まで何でも一緒にやってきて、何でも共有してきた双子が、ついに違う場所に立つ。その痛みは我々には想像もつかないほど大きく、衝撃的だったことだろう。そのため、二人はどうしても儀式を必要とした。それがこの「Twin mirror♥compact」だったのである。

Twin mirror♥compact ハートとハートがchu!

少し怖いけどバイバイ(見つめてバイバイ)

Twin mirror 覗き込んで 涙の跡ふいて

離れていたって『LO♥VE』繋がる!

twin mirror 開いたら 勇気を交換こ

あのね気持ちは一緒さ(だから大丈夫)

一人になるのは 悲しいことじゃない

おニューな二人で また はしゃごう! 

  鏡のついたコンパクトは、開けば二枚貝のように片方ずつが違うものを映す。しかし結局は一つのコンパクトなのだ。お互い違う場所で涙の跡を映したとしても、鏡の向こうでは愛で繋がっている。

 双子は離れたことがなかった。だからこそ、「離れていても繋がっている」ことをお互い再確認しなければならなかったのだ。そしてそれは、二人にとってまたとない飛躍の機会でもあった。

似てるようで似てないheart 鏡に映す未来

ほらね 僕は僕 私は私で

 この歌詞を歌った時、ドロシーとレオナは「二人で一人」だっただろうか。きっと違う。お互いがもっと素晴らしいアイドルになるために、むしろ「一人が二人」になったのだ。意図的に同じものとして生きてきた二人は、それを一度やめ、「僕は僕」「私は私」として「似てるようで似てない」 ことを言葉にした。すさまじい勇気だと思う。でもその別れの痛みは成長痛だ。再び同じ場所へ戻ってきた時のドロシーとレオナは、傷だらけの強靭な身体で、世界一軽やかに踊る。

 

 

ちゃん子「Just My Chance Call」

 歌詞のリンクを貼りたいのだが、この音源は昨年春の映画のDVD特典として収録されており、歌詞サイトに掲載がない。残念だが各自DVDを買うなり借りるなりで鑑賞してほしい。

そういう歌詞のリンクを貼れない曲でありながらここで紹介せざるを得なかったのは、この曲がそれだけ伝説的だからである。曲を歌う「ちゃん子」は、その名の通りの女の子だ。今の美醜の基準で言うなら、いわゆる「アイドルにはなれない」容姿の持ち主である。実際作中では、クールで天才肌のキャラクター・そふぃの親衛隊として登場している。

しかし、しかしだ。プリパラの合言葉は「み〜んなトモダチ! み〜んなアイドル!!」なのである。みんなアイドルなのだ。そう、ちゃん子はアイドルだった。誰にも似ていない、誰も真似できない圧巻のパフォーマンスを携えて、ステージに上がる。ラストのサビを引用しよう。

Nobody beats the me! 譲れないのは glamorousなChance call!

Fight Back 弱気 教えてあげる 誰が最強か

死ぬ気でかかってこい

勝つ気でかかってこい

暴れて! 私の愛! Come on!!

 この曲が披露されたのは、映画でアメリカの地下ファイトクラブに送られてしまったそふぃ親衛隊の面々が、「勝ち抜かなければ一生ここから出られない」と言われ、全員の命運が託されたちゃん子が女レスラーとの戦いに挑む……という、女児アニメにしてはハードコアすぎる展開の最中であった。

 サビだけで雑魚はふっとびそうな圧倒的パワーがある。なんたって「教えてあげる 誰が最強か」「死ぬ気でかかってこい 勝つ気でかかってこい」が連続して突きつけられるのだ。そこにあるのは力と力のぶつかり合いだが、同時にそれは暴れだしたら止まらない「私の愛」であり、その「愛」とはまぎれもなくアイドルのアイなのだ。

 そして「Nobody beats the me!」である。ただのmeではない。「the me」なのだ。唯一無二の私を生きる、こんなこと私にしかできない、他のヒョロいアイドルどもとは一味ちげえんだ。そういう気概が、たった一単語でビンビンに伝わって来る。

 「太っている」ことは「美しくない」と、誰が決めたのだろうか? そんなものは単なる文化の刷り込みだ。だってちゃん子はこんなにも美しい。仲間のために敵を粉砕し、勝利のリズムで四股を踏みながらグラマラスに踊り続ける、彼女ほどかっこいいアイドルはいない。プリパラは、あらゆる価値観を受け入れるのと同時に、たくさんの新しい美を生み出す場所なのである。それがきっと、今日も誰かを救っているはずだ。

 

UCCHARI BIG-BANGS「愛ドルを取り戻せ!」

 歌詞はこちら

三期最大の衝撃であった、うっちゃりビッグバンズの新曲である。アイドルのアイは、つまり愛なのだ。うっちゃりとは土俵際から巻き返す相撲の逆転技のことで、まさに神アイドルグランプリの敗者復活枠からよじのぼってきた気概が込められている。

まずメンバーが濃い。前述のちゃん子に加え、エキセントリックな天才デザイナー・北条コスモと、コスモの学生時代からの親友にしてプリパラ一はみ出た魅力を持つ美術教師・黄木あじみがチームになったのだ。この三人からドロップされたのがメタルだなんて、聞く前にお腹いっぱいである。

歌詞は極めて感覚的だ。韻を織り交ぜながら語呂合わせと勢いで語られる力強いサビの中に、あじみの際限ない美術ダジャレが振りかけられる。その中で語られるのは、「私は私」という意思なのだ。

翼の折れたヒロインたち

傷だらけのHeart & soul

それでも空を目指すんでしょ

誰にも似てない自分だけの青空

時代の風を揺らすんなら

不毛の大地に 咲かせようよアイデンティティ

  普通とはなんだろう。きっとそんな価値基準に意味はない。うっちゃりビッグバンズが目指すのはいつだってオリジナルだ。「誰にも似てない自分だけの青空」は、分厚い雲を自ら切り開いた先にある。

 だからこそ三人は世紀末の空へ飛翔するメイキングドラマを作ったのだろう。時代の風が自分たちと違う色をしていて、その流れがめちゃくちゃ強かったとしても、それをぶち抜いて揺らして個性を開花させる。アイドルになるために、愛以外何も必要ではない。土俵際はむしろチャンス。うっちゃりで世界が変わるなら、うっちゃりするしかないのだ。

  

 

北条そふぃ「Red Flash Revolution」

歌詞はこちら

映画「プリパラ み~~んなでかがやけ!キラリンスターライブ」でお披露目になった北条そふぃのソロ曲である。

この映画と北条そふぃというアイドルについて考えるとき、ひとつの騒動について触れねばならない。それは二期のエンディング曲「胸キュンラブソング」のとあるカットについて、BPO放送倫理・番組向上機構)から批判が寄せられたことである。その「とあるカット」こそ、そふぃが肩ひものはだけたランジェリーのようなワンピースをまとった絵だった。

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批判が来たのち、そのカットはなんとオーバーオールの肩ひもをはだけた漁師ルックのそふぃに差し替えられた。「肩ひもがはだけている」ことを批判されたので、逆にそこだけは貫き通したプリパラの「抵抗」は、極めて鮮烈に映った。

これは公式になんのソースもないので「私はそう受け取った」というだけの話だが、おそらくプリパラ製作サイドはこの事件について相当根に持っているのだと思う。確信に至ったのは、映画でそふぃが背中や腹がばっくりと開いた極めてセクシーなドレス姿を披露したことだ。ステージで踊るときには違う衣装に着替えるのに、わざわざステージに登場するシーンで挑発的なまでにセクシーなドレスをまとうというのは、明らかに地上波でやって批判されたことを映画館でやり返してやる、という強い反抗心だった。(さらに映画では白い下着風のワンピースを着たちゃん子がセクシーに椅子にもたれるシーンが挿入される。これもまた「性」を遠ざける人々への挑戦なのだと思う)

前置きが長くなった。妖艶な姿で現れたそふぃが歌い出すのがこちらの「Red flash revolution」である。音楽的なことは正直あまりわからないのだが、曲調はキューティーハニーのテーマ曲を思い出させる。そう、キューティーハニーと言えばセクシーな女の子が戦う古典的人気作品だ。プリパラはそふぃという美神を通じ、セクシーであることもまた女の子が選べる楽しい選択肢なのだと主張しているのではないか。

救ってあげるわ! 解放しちゃえ!

さあ、鳥籠なんてbreak out  革命のRed Flash

最後のこの一節には、プリパラという仕組みが何気ない顔で抱える巨大な許しが現れている気がしてならない。プリパラではなりたい姿になっていい。求めるものに手を伸ばすことが許されている。元々アイドル像に縛られてきたそふぃが、今度はせせこましい価値観に囚われる「小鳥ちゃんたち」を救うのだ。そういうプリパラの強さを見せつける、系譜を感じる一曲である。

 

南みれぃ「TRIal Heart~恋の違反チケット~」

歌詞はこちら

この曲は「南みれぃ」「弁護士みれぃ」「検事みれぃ」の三つに分岐したみれぃが歌唱するミュージカルめいたロックチューンだ。パラレルワールドでどうやら恋に落ちたらしい南みれぃをめぐり、二人の法の番人=みれぃが裁判で争う。アイドルに恋愛は許されるのか? 気持ちに嘘をつくのはよくないわ!と微笑む弁護士みれぃ、その主張には根拠がない!と畳み掛ける検事みれぃ。ライブシーンでは三人のみれぃが歌い踊る極めて不思議な光景が繰り広げられる。

ぶりっ子と呼ばれる質の人が嫌われるように、コミュニケーションに関しては「一元的であること」が重視される場合が多い。素直だとか腹を割って話すとか、「本物の自分を見せる」ということがそのまま相手への信頼を意味する状況は頻繁にやってくる。

 みれぃの分裂をめぐるストーリーには、一期の名エピソード「ぷりのままで」が極めて重要だ。アイドルとしてのみれぃは本当の自分ではないのではないか?と惑うみれぃは、最終的に「どちらも私なのだ」という結論を見つけることになる。

そう、全てみれぃなのだ。みれぃでいいのだ。彼女の心のやわい部分を暖かく認めて想いを遂げさせようとする弁護士みれぃも、ルールを守ることに至上の価値を認めて厳しく自律を迫る検事みれぃも、どちらもみれぃなのである。彼女は将来何になるのかまだ決めかねているし、異なる姿を行き来する。その揺らぎは素敵でポップで限りなく魅力的だ。ぶりっ子だとか本心じゃないとか、他人が想定する「本物」などに価値はない。

 

トリコロール「Neo Dimension GO!!」

歌詞はこちら

この曲を初めて劇場で聴いた時、度胆を抜かれた。トリコロールが「完成」してしまった、と思い、打ち震えたのである。

トリコロールのデビュー曲である「Mon Chou Chou」は確かに名曲であるが、時期の焦りやメイキングドラマの強引さも含め、トリコロールとしての「お披露目」であり「自己紹介」としての側面が大きかったように思う。それぞれの良いところを持ち寄って、自分たちを説明するイントロダクションだった。

ところが、Neo Dimension GO!!のトリコロールは、巡り合った劇場を完璧に支配してみせる「真骨頂」であり、まさに今までより次元が一つ上なのである。

その名はプリパイレーツ号 星より輝くBODY

唯一無二の海賊船 荒波を蹴散らし

遥か彼方 伸びるトリコロールライン

自由に生きるのが使命よ

NEO DIMENSION 生んで 広げて 進めGO!!

Neo Dimension GO!!は、並行宇宙のひびき・ファルル・ふわりが宇宙海賊の気概をダイナミックなハーモニーで歌い上げる一曲だ。思えばこの三人の関係は奇妙なものだった。トラウマを抱えながら自らのエゴでふわりを選びふわりを捨て、ファルルに憧れて肉体も捨てようとしたひびき、ひびきとの関係に苦しみながらもひびきを愛し抜き、強引な手段を使ってでもひびきが自分の触れられない領域へ去ろうとすることを阻止したふわり、そして二人の想いを暴力的なまでに受けながら微笑み続けるファルル。「嘘」と「本当」でねっとりと絡みついたこの三人がチームになれるとは、正直思わなかった。それでも三人は、愛によって三人でステージに立つことを選ぶに至った。

Mon Chou Chouでも繰り返し現れる言葉だが、もうこの三人に嘘も本当も関係ない。大事なのはトリコロールが「唯一無二」であることだけだ。過去に囚われるために使える時間などもはやない。全てを噛み締め、乗り越えながら、情熱のままに求めるものを追いかける自由さを手にいれたトリコロールの、最も完成された演劇。それがNeo Dimension GO!!なのだ。上演場所はこの世で最も広い場所がふさわしい。やはり、宇宙である。

 

 

今回はここまでで筆を置くことにする。現在シリーズ4期となる「アイドルタイムプリパラ」が放映中だが、個人的にはドレッシングパフェの新曲を心待ちにしている。この先もプリパラというコンテンツへ全面的な信頼を寄せ、追いかけていきたい所存だ。

「ひるね姫」の面白さを言語化するメモ:社会と居場所の2017年

※ネタバレ満載です!!!!既に鑑賞した人向けなのでご了承ください!!!!!

 

 

 

 

 

 

ひるね姫は「社会」と「居場所」の物語だった。

神山監督が作ったオリジナルアニメーションに「東のエデン」(2009)という作品がある。3月29日に発売されたムック本「神山健治Walker」の帯で今作に関してはっきりと「次世代のテクノロジーを使って『東のエデン』の延長線上にある世代間の物語を描きたい」と書かれているように、東のエデンひるね姫は切っても切り離せない関係にあるのだ。

東のエデン」の舞台は2011年。不景気と閉塞感が充満した日本で、記憶喪失の主人公・滝沢が、ニートの若者らとともに「100億円でこの国を変える」知能戦・セレソンゲームに巻き込まれながら「この国の空気」に戦いを挑む、というサスペンスである。

リーマンショックで景気は最悪、回復の兆しはなく、将来どうなるか分からず、「空気を読む」ことを求められ続ける……そんな2009年の情景を、「東のエデン」はみごとに切り取った上で、「2年後」のわずか先の社会を予想した。実際の2011年を経験している我々からすれば、もう東のエデンで描かれた未来予想図の間違いはいくらでも目につく。でも、2009年当時の「2011年のリアリティ」は、東のエデンだったのだ。

 

ひるね姫」の舞台は2020年の夏、東京オリンピック開催直前である。東京オリンピックは、2017年の我々にとって不思議な指標だ。私も就活時期について「2020年までは景気が持つだろう」と言われたことがあるが、「じゃあその後は?」と問えば、いつも「どうなるか分からない」と濁された。今リアリティを持って想像できる一番遠い未来が、2020年の夏なのではないか。神山監督の想像は、きっと3年後には齟齬が見つかるだろう。しかしそれはエデン同様、大した問題ではない。「2017年に想像する一番遠い未来としての2020年」は、如実に今の社会の空気を映しているのである。

2009年が「社会に居場所のない若者が社会を変えようとする」東のエデンだったとすれば、2017年は「ある家族が自分の居場所を守ろうとする」ひるね姫だった。それは社会の変化でもあったし、神山監督自身の変化でもあった。

 

ココネの行動は、ただ「父を助ける」というシンプルな気持ちで起こされている。それは父親がココネの居場所の一部だったからだ。大事な居場所を脅かされたココネは、自分の力で反撃に出る。元はと言えば、ココネの母・イクミも、完全自動操縦技術の開発を進言して社長(イクミの父でもある森川一心だ)に却下され、会社に失望した結果、会社役員という居心地の悪い場所を捨て、モモタローとともに新しい居場所を作った。ラストシーン、家に戻るように設定したはずの自動操縦車「ハーツ」がココネとモモタローのもとに走ってきたのは、「モモタローとココネがいる場所」こそが、イクミのメタファーであるハーツにとっての「家」だったからではないだろうか。場所は、緯度と経度だけで決まるものではなく、人の存在やその記憶によっても構成されている。リラックスして「ひるね」できるのは、大事な人の記憶にあたためられた「家」の中なのだ。

 

森川家と和解した一心はモモタローに(明言されていないが)本社勤務に復帰する道を、ココネに進学のために東京で勉強する道を打診する。モモタローは倉敷での暮らしを続けたいと意思表示する一方、ココネは東京と倉敷を行ったり来たりすることを選んだ。もともと金銭面の問題で東京に進学できなくなる可能性を生々しく感じてきたココネが、一目散に東京で暮らすことを選択せず、「東京にちょくちょく行く」という半々の生活をとったのは、やはりココネにとって父のいる倉敷の家が大切な居場所だからだろう。脅かされた居場所を回復したココネは、さらに自分の力で新しい居場所を構築した。大事なものを素直に大事にしながら行動力で望みを勝ち取っていくココネの生命力は、どこまでも眩しい。

 

同時に物語のポイントとなるのは、「主観の肯定」なのではないか。物語のカギとなる「夢」は、そもそも徹底的な主観の世界である。ココネの夢は、機械の王国「ハートランド」を舞台にした続き物のストーリーとして展開され、さらに現実ともリンクする不思議な世界だ。この夢はココネが幼少期に父親から聞かされていたおとぎ話なのだが、実はココネの母・イクミを主人公にした森川家のファミリーヒストリーの比喩だった。

 

夢は次第に拡張されていき、夢の世界に設定がない人物を現実世界の姿で巻き込みながら現実と混ざり始める。

夢の前半では、ココネの視点はハートランドの姫・エンシェンに置かれている。しかしエンシェンがココネのことではなく母・イクミのことだと気づいて以降は、ココネはエンシェンでなくなり、現実世界の高校生姿に変わるのだ。そして最後、志島自動車へ直談判に向かうシーンでは、ココネ自身は高校生姿の一方、「モモタローのおとぎ話」の設定のまま比喩で現実が進んで行く。この場面を指して「何が起きているのかわからなかった」と評する感想を数多く見たが、それは仕方ないのだ。なぜならこれはココネの主観であり、ココネ自身も何が起きているか把握していないからである。

ココネの主観である現実と夢が激しく交錯するのは、ココネにとって目の前の事実と夢との区別がついていないためだろう。でもココネはそういう子なのだ。

冒頭モリオの同級生に東京への進学について「お前じゃ何年かかったって行けないところじゃ」と揶揄されるシーンがある。このセリフは元ヤンの父と二人暮らしのココネを、貧乏で頭の悪い変な家の子として馬鹿にしているのだが、ココネは「そんなに遠いところなん?」と返事する。彼女は他人の悪意に気づかない子だが、それはココネの欠点であり武器でもある。余計なものに削られる前に自分の目的を見ることができる、ココネの強みなのだ。終盤、渡辺が自社の炎上を画策するシーンで舞い散るコウモリは<青い鳥>が姿を変えた「インターネット上の悪意」の象徴だろうが、彼女はコウモリにやられたりはしない。

 

「娘に見せたいアニメを作ってはどうか」

神山監督は日テレ側からそう提案されてこの作品を発案したという。でもこれはそのままの意味ではもちろんなく(参考記事 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20170325/E1490373683586.html)、今の社会に漠然と蔓延する不安感を、「ものを作る」ことのポジティブさとココネの生命力で拭おうとした、「明るい落としどころ」のことなのではないか。自分は誰なのか? この先どうするのか? 「分からない」という恐怖を、主観の肯定と地道なクリエイトが払拭してみせる。逆に言うと、今信じられるのはそれだけだ、ということかもしれない。ただ、自分にとって自分が信頼できる存在なら、それは確かな生き抜く力なのだ。それが神山監督が2017年に迎えた、あたたかい新境地だったのだと思う。

 

21歳の春

21歳、春のくすぶり。やべえやべえ。焦り以外に何もないぐらい焦っているけど明確にやるべきことは何も見つからず、ただ目の前に大量に流れてくる弾幕をアウアウ言いながら追っている感覚がある。ストリームはキャリタスとかマイナビとかそういう場所からくる。就活だ。

私は就活しない。それも「もっと勉強したい」というごく真面目な理由で進学を選んだ。最近気づいたのだが私は真面目なのだ(性根が曲がっていることと真面目であることは意外に矛盾しない)。そして真面目であるがゆえに私は今世間の大学3年生が大いに立ち向かっている最中であろう「就活」という強風も、傍流において「真に受けた」。これに抗うことは気持ちの上で難しく行動の上で簡単である。絶対受けないのにちょっと興味のある企業の新卒募集要項のページをクリックしてみたりする。「ここから先はマイナビ2018のサイトになります」とか言ってログインを迫られ、IDがないのですごすごブラウザを閉じたりもする。もちろんこの行動全てに生産性はない。ただ忙しく動き回る友達を見て、あの子は自分の将来について考えているのだ、という事実に打ちのめされただけだ。

 

いやそもそもなぜ打ちのめされているのか? 就活していても将来やりたいことについて現在進行形で悩んでいる人はたくさんいる、というかむしろ就活によって悩んでいる人の方が多いし、私だって積極的な意味で進学を志望しているわけで、別に「決まって一抜け」した子たちを将来白紙のまま見ているわけではないのに。

漠然としたショックの理由はだんだん分かってきた。「未来に向かって歩いていく」というJPOP的に前向きな行動をマジで取っている人たちを何度も視界に入れていると、その光のまぶしさに気づくのだ。未来を見ている人は明るい。何人かに話を聞いたが、夢がないとか言っている子たちもなんだかんだ方針は決まっていて取るべき舵を取っている感じがした。あの子は食品メーカー、あの子は映像製作。「光の射す方へ」というのはこういうことか。自分で自分の行く末を選ぶ人は無条件でカッコイイ。

 

中世の人間は「未来に向かってバックする」。どういうことかというと、「さき」と「あと」の感覚が、今の人間と中世の人間ではほぼ逆なのだ。中世で「さき」というと「さきの戦争」のときの「さき」で、「あと」というのは「あとは野となれ山となれ」の「あと」である。つまり「さき」とは我々が想像する未来という意味での「さき」ではなく過去のことになるし、「あと」は過去ではなく未来を指しているのだ。身体的な単位で言うなら、現代人が未来を見ながら進んで行くとしたら、中世人は過去を見ながら未来に向かって後ずさりしていく、ということになる。この人間の認識の時代的差異は、日本列島に限らずヨーロッパでも見られるものだった、と勝俣鎮夫は論文「バック トゥ ザ フューチャー」で述べている。

 

やりたいことは何かとか、どういう自分になりたいかとか、そういうことについて考えるのは比較的新しい行為である。生きるか死ぬかの今をサバイブしていたウン百年前の人間にそんな余裕はほとんどなかっただろう。今が担保された結果、私は未来を見る余裕を持った。逆に言うと何もない白紙を見るしかなくなった。仮に自力で望み通りにどうこうできるほど選択肢がなかったとしても、「自分が選んだ」ものを受け取って生きていくしかない。20歳を超えて気づいたのは、自分が自分の人生の当事者であり責任者であるということだった。私の選択は私の生に直接跳ね返ってきた。

そうなるとたちまち不安になる。これでいいのか? やりたいようにやって、それでどうにかなるのか? やりたい道を選んで、それが終わったら何をするのか? やりたいことと出来ることは違うわけで……いや出来ることって何????

 

結論は何も出ていない。この文章を書いているのも何もせずにボケッと寝ているよりは何かしらアウトプットした方が有意義だろうという考えからである。ただこうやって無為な時間に「21歳春のくすぶり!!」などとエモーショナルなタイトルをつけて何か価値があるかのように見せかけているのもそれはそれでクソな行為であることは間違いない。悩みながら時間を棒に振ることは確かに大学三年の春にしかできないことだが、今しかできないことが常に至上の価値をもつわけでは勿論ないのだ。ヴッ! 自分で自分に説教を重ねながらつらい季節が過ぎる。もう3月が終わりそうだ。4月はきっとうまくやる、やってみせるぞ、と唱えても、「うまくやる」というのが具体的に何なのかは全然分からない。私は雰囲気で人生をやっている。

週刊少年ジャンプと私

 

14歳の冬、週刊少年ジャンプ2009年2号を前にして、「ここで止めよう」と決意した。奇しくもその号はのちに大大大大ヒットを飛ばす「黒子のバスケ」の第1話が掲載された号だったが、私が定期購読をやめる決意をしたきっかけは黒バスではない。2009年3号のジャンプで、私が愛してやまない漫画「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」の西義之先生の新作が始まるということを知ったからだった。

当時の私は経済的に逼迫していた。中学に上がってからお金を使う先は増えており、このままでは毎週ジャンプを購入することは難しい。しかし西先生の連載がスタートしてしまえば購入を止められなくなる。それゆえ、読む前に我慢をしよう。そういう発想だったのである。

あれ以来8年の月日が流れた。西先生の新作「ぼっけさん」は短命に終わってしまった。途中、「ピューと吹く! ジャガー」の最終回が掲載された号は購入したが、連続してジャンプを買うことはなくなった。しかし、2016年の11月、私は再びジャンプの定期購読に手を伸ばす。きっかけは「僕のヒーローアカデミア」で、第1話から全くまともな会話ができていなかったデクとかっちゃんがついに対話をしたという話をつかんだからであった。マジかよ! オタクは葛藤の末決済ボタンを押し、かくして毎週月曜日の朝にはアプリ「ジャンプ+」を速攻で起動するようになったのである。

 

前置きが長くなった。購読は現在も続けている。ジャンプは、面白い。読むところが多いというか、面白さの打率が異常に高いのである。

買い始めた当初は、話の流れが追えている作品はほぼヒロアカのみだったが、続けて読んでいるとだんだん物語の輪郭がはっきりしてくる。まず最初に面白いと思ったのは「約束のネバーランド」だった。子供達が養い親が見つかるまでの期間を過ごす孤児院が実は子供の肉を出荷するためのプラントだった、という度肝を抜く設定と、それを知った賢い子供達がどうにか「ママ」の目をあざむき孤児院を脱出して外で生きる手立てを模索する……というクローズドな場所で繰り広げられる心理戦は、確かに世間的な「ジャンプらしさ」からは遠いものだったが、読んでいる時の「来週どうなんの!!!!!!???????」という高揚感は確かに「ジャンプ的」だ。

さらに青葉城西戦の途中までしか読んでいなかった「ハイキュー!!」も、久しぶりに読みたくなって最新刊まで一気にレンタルして読んだ。めちゃくちゃ面白かった。あんなに部活にドライだった月島が、白鳥沢戦ではチームの屋台骨になっているではないか……。成長の幅があまりにも大きくて泣けた。

そして「左門くんはサモナー」だ。最初はギャグ漫画として楽しんでいたが、どんどん細かい人間描写が感動するほど緻密に作り込まれていることに気づいてしまい、夢中になった。友達がいないのにプライドが高い人間にここまで刺さるコメディはない。(この話はいずれ単独の記事でお目にかけたい。)

そのほかにも独特の絵柄と台詞回しがくせになる「鬼滅の刃」、異常にテンポのいいギャグ漫画「青春兵器ナンバーワン」など、一冊の密度がめちゃくちゃ高い。これが月900円でいいのか? おかげで月曜の朝に二度寝することがなくなった。

 

……二度寝。そう、今私は大学生ならではのクソ長い春休みを過ごしている。あんなに高い学費を払わせておいて一年の三分の一が休みってちょっとどうかと思う。やることがない。私の周囲は皆就活に向けて動いており、それぞれ忙しそうだ。

私は進学希望なので、特に喫緊の課題もなく消化試合のような毎日を過ごしている。長期目標しかない日々はやる気が出ない。友達と遊ぼうにも皆企業説明会だの何だので結局予定が合わない。時間ができると自分の人生とは……みたいなことを考え始めてしまい、将来の先行きが何も決まっていない不安で内臓がつぶれそうになる。冬から春という季節の変わり目は体調にも影響を及ぼしており、頭痛や倦怠感で起き上がれなくなるとさらに将来への不安を考え始めてしまい……という地獄ループである。

ジャンプを読みながら8年前の自分を考える。中学受験のストレスを救ってくれたのはMr.FULLSWING家庭教師ヒットマンREBORN!だったし、痛い創作意欲を手助けしてくれたのはBLEACHD.Gray-manだった。今年の私は再び受験生という身分である。今後日々のだるさや周囲の空気に当てられる時の焦燥感に耐え抜く時、再び週刊少年ジャンプを懐に抱くことになるだろう。「来週またあの漫画の続きが読める」という希望は、いつだって先の見えない一週間を照らしてくれるのだ。