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SEPPUKU Web

巣矢倫理子のブログです

「ひるね姫」の面白さを言語化するメモ:社会と居場所の2017年

※ネタバレ満載です!!!!既に鑑賞した人向けなのでご了承ください!!!!!

 

 

 

 

 

 

ひるね姫は「社会」と「居場所」の物語だった。

神山監督が作ったオリジナルアニメーションに「東のエデン」(2009)という作品がある。3月29日に発売されたムック本「神山健治Walker」の帯で今作に関してはっきりと「次世代のテクノロジーを使って『東のエデン』の延長線上にある世代間の物語を描きたい」と書かれているように、東のエデンひるね姫は切っても切り離せない関係にあるのだ。

東のエデン」の舞台は2011年。不景気と閉塞感が充満した日本で、記憶喪失の主人公・滝沢が、ニートの若者らとともに「100億円でこの国を変える」知能戦・セレソンゲームに巻き込まれながら「この国の空気」に戦いを挑む、というサスペンスである。

リーマンショックで景気は最悪、回復の兆しはなく、将来どうなるか分からず、「空気を読む」ことを求められ続ける……そんな2009年の情景を、「東のエデン」はみごとに切り取った上で、「2年後」のわずか先の社会を予想した。実際の2011年を経験している我々からすれば、もう東のエデンで描かれた未来予想図の間違いはいくらでも目につく。でも、2009年当時の「2011年のリアリティ」は、東のエデンだったのだ。

 

ひるね姫」の舞台は2020年の夏、東京オリンピック開催直前である。東京オリンピックは、2017年の我々にとって不思議な指標だ。私も就活時期について「2020年までは景気が持つだろう」と言われたことがあるが、「じゃあその後は?」と問えば、いつも「どうなるか分からない」と濁された。今リアリティを持って想像できる一番遠い未来が、2020年の夏なのではないか。神山監督の想像は、きっと3年後には齟齬が見つかるだろう。しかしそれはエデン同様、大した問題ではない。「2017年に想像する一番遠い未来としての2020年」は、如実に今の社会の空気を映しているのである。

2009年が「社会に居場所のない若者が社会を変えようとする」東のエデンだったとすれば、2017年は「ある家族が自分の居場所を守ろうとする」ひるね姫だった。それは社会の変化でもあったし、神山監督自身の変化でもあった。

 

ココネの行動は、ただ「父を助ける」というシンプルな気持ちで起こされている。それは父親がココネの居場所の一部だったからだ。大事な居場所を脅かされたココネは、自分の力で反撃に出る。元はと言えば、ココネの母・イクミも、完全自動操縦技術の開発を進言して社長(イクミの父でもある森川一心だ)に却下され、会社に失望した結果、会社役員という居心地の悪い場所を捨て、モモタローとともに新しい居場所を作った。ラストシーン、家に戻るように設定したはずの自動操縦車「ハーツ」がココネとモモタローのもとに走ってきたのは、「モモタローとココネがいる場所」こそが、イクミのメタファーであるハーツにとっての「家」だったからではないだろうか。場所は、緯度と経度だけで決まるものではなく、人の存在やその記憶によっても構成されている。リラックスして「ひるね」できるのは、大事な人の記憶にあたためられた「家」の中なのだ。

 

森川家と和解した一心はモモタローに(明言されていないが)本社勤務に復帰する道を、ココネに進学のために東京で勉強する道を打診する。モモタローは倉敷での暮らしを続けたいと意思表示する一方、ココネは東京と倉敷を行ったり来たりすることを選んだ。もともと金銭面の問題で東京に進学できなくなる可能性を生々しく感じてきたココネが、一目散に東京で暮らすことを選択せず、「東京にちょくちょく行く」という半々の生活をとったのは、やはりココネにとって父のいる倉敷の家が大切な居場所だからだろう。脅かされた居場所を回復したココネは、さらに自分の力で新しい居場所を構築した。大事なものを素直に大事にしながら行動力で望みを勝ち取っていくココネの生命力は、どこまでも眩しい。

 

同時に物語のポイントとなるのは、「主観の肯定」なのではないか。物語のカギとなる「夢」は、そもそも徹底的な主観の世界である。ココネの夢は、機械の王国「ハートランド」を舞台にした続き物のストーリーとして展開され、さらに現実ともリンクする不思議な世界だ。この夢はココネが幼少期に父親から聞かされていたおとぎ話なのだが、実はココネの母・イクミを主人公にした森川家のファミリーヒストリーの比喩だった。

 

夢は次第に拡張されていき、夢の世界に設定がない人物を現実世界の姿で巻き込みながら現実と混ざり始める。

夢の前半では、ココネの視点はハートランドの姫・エンシェンに置かれている。しかしエンシェンがココネのことではなく母・イクミのことだと気づいて以降は、ココネはエンシェンでなくなり、現実世界の高校生姿に変わるのだ。そして最後、志島自動車へ直談判に向かうシーンでは、ココネ自身は高校生姿の一方、「モモタローのおとぎ話」の設定のまま比喩で現実が進んで行く。この場面を指して「何が起きているのかわからなかった」と評する感想を数多く見たが、それは仕方ないのだ。なぜならこれはココネの主観であり、ココネ自身も何が起きているか把握していないからである。

ココネの主観である現実と夢が激しく交錯するのは、ココネにとって目の前の事実と夢との区別がついていないためだろう。でもココネはそういう子なのだ。

冒頭モリオの同級生に東京への進学について「お前じゃ何年かかったって行けないところじゃ」と揶揄されるシーンがある。このセリフは元ヤンの父と二人暮らしのココネを、貧乏で頭の悪い変な家の子として馬鹿にしているのだが、ココネは「そんなに遠いところなん?」と返事する。彼女は他人の悪意に気づかない子だが、それはココネの欠点であり武器でもある。余計なものに削られる前に自分の目的を見ることができる、ココネの強みなのだ。終盤、渡辺が自社の炎上を画策するシーンで舞い散るコウモリは<青い鳥>が姿を変えた「インターネット上の悪意」の象徴だろうが、彼女はコウモリにやられたりはしない。

 

「娘に見せたいアニメを作ってはどうか」

神山監督は日テレ側からそう提案されてこの作品を発案したという。でもこれはそのままの意味ではもちろんなく(参考記事 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20170325/E1490373683586.html)、今の社会に漠然と蔓延する不安感を、「ものを作る」ことのポジティブさとココネの生命力で拭おうとした、「明るい落としどころ」のことなのではないか。自分は誰なのか? この先どうするのか? 「分からない」という恐怖を、主観の肯定と地道なクリエイトが払拭してみせる。逆に言うと、今信じられるのはそれだけだ、ということかもしれない。ただ、自分にとって自分が信頼できる存在なら、それは確かな生き抜く力なのだ。それが神山監督が2017年に迎えた、あたたかい新境地だったのだと思う。

 

21歳の春

21歳、春のくすぶり。やべえやべえ。焦り以外に何もないぐらい焦っているけど明確にやるべきことは何も見つからず、ただ目の前に大量に流れてくる弾幕をアウアウ言いながら追っている感覚がある。ストリームはキャリタスとかマイナビとかそういう場所からくる。就活だ。

私は就活しない。それも「もっと勉強したい」というごく真面目な理由で進学を選んだ。最近気づいたのだが私は真面目なのだ(性根が曲がっていることと真面目であることは意外に矛盾しない)。そして真面目であるがゆえに私は今世間の大学3年生が大いに立ち向かっている最中であろう「就活」という強風も、傍流において「真に受けた」。これに抗うことは気持ちの上で難しく行動の上で簡単である。絶対受けないのにちょっと興味のある企業の新卒募集要項のページをクリックしてみたりする。「ここから先はマイナビ2018のサイトになります」とか言ってログインを迫られ、IDがないのですごすごブラウザを閉じたりもする。もちろんこの行動全てに生産性はない。ただ忙しく動き回る友達を見て、あの子は自分の将来について考えているのだ、という事実に打ちのめされただけだ。

 

いやそもそもなぜ打ちのめされているのか? 就活していても将来やりたいことについて現在進行形で悩んでいる人はたくさんいる、というかむしろ就活によって悩んでいる人の方が多いし、私だって積極的な意味で進学を志望しているわけで、別に「決まって一抜け」した子たちを将来白紙のまま見ているわけではないのに。

漠然としたショックの理由はだんだん分かってきた。「未来に向かって歩いていく」というJPOP的に前向きな行動をマジで取っている人たちを何度も視界に入れていると、その光のまぶしさに気づくのだ。未来を見ている人は明るい。何人かに話を聞いたが、夢がないとか言っている子たちもなんだかんだ方針は決まっていて取るべき舵を取っている感じがした。あの子は食品メーカー、あの子は映像製作。「光の射す方へ」というのはこういうことか。自分で自分の行く末を選ぶ人は無条件でカッコイイ。

 

中世の人間は「未来に向かってバックする」。どういうことかというと、「さき」と「あと」の感覚が、今の人間と中世の人間ではほぼ逆なのだ。中世で「さき」というと「さきの戦争」のときの「さき」で、「あと」というのは「あとは野となれ山となれ」の「あと」である。つまり「さき」とは我々が想像する未来という意味での「さき」ではなく過去のことになるし、「あと」は過去ではなく未来を指しているのだ。身体的な単位で言うなら、現代人が未来を見ながら進んで行くとしたら、中世人は過去を見ながら未来に向かって後ずさりしていく、ということになる。この人間の認識の時代的差異は、日本列島に限らずヨーロッパでも見られるものだった、と勝俣鎮夫は論文「バック トゥ ザ フューチャー」で述べている。

 

やりたいことは何かとか、どういう自分になりたいかとか、そういうことについて考えるのは比較的新しい行為である。生きるか死ぬかの今をサバイブしていたウン百年前の人間にそんな余裕はほとんどなかっただろう。今が担保された結果、私は未来を見る余裕を持った。逆に言うと何もない白紙を見るしかなくなった。仮に自力で望み通りにどうこうできるほど選択肢がなかったとしても、「自分が選んだ」ものを受け取って生きていくしかない。20歳を超えて気づいたのは、自分が自分の人生の当事者であり責任者であるということだった。私の選択は私の生に直接跳ね返ってきた。

そうなるとたちまち不安になる。これでいいのか? やりたいようにやって、それでどうにかなるのか? やりたい道を選んで、それが終わったら何をするのか? やりたいことと出来ることは違うわけで……いや出来ることって何????

 

結論は何も出ていない。この文章を書いているのも何もせずにボケッと寝ているよりは何かしらアウトプットした方が有意義だろうという考えからである。ただこうやって無為な時間に「21歳春のくすぶり!!」などとエモーショナルなタイトルをつけて何か価値があるかのように見せかけているのもそれはそれでクソな行為であることは間違いない。悩みながら時間を棒に振ることは確かに大学三年の春にしかできないことだが、今しかできないことが常に至上の価値をもつわけでは勿論ないのだ。ヴッ! 自分で自分に説教を重ねながらつらい季節が過ぎる。もう3月が終わりそうだ。4月はきっとうまくやる、やってみせるぞ、と唱えても、「うまくやる」というのが具体的に何なのかは全然分からない。私は雰囲気で人生をやっている。

週刊少年ジャンプと私

 

14歳の冬、週刊少年ジャンプ2009年2号を前にして、「ここで止めよう」と決意した。奇しくもその号はのちに大大大大ヒットを飛ばす「黒子のバスケ」の第1話が掲載された号だったが、私が定期購読をやめる決意をしたきっかけは黒バスではない。2009年3号のジャンプで、私が愛してやまない漫画「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」の西義之先生の新作が始まるということを知ったからだった。

当時の私は経済的に逼迫していた。中学に上がってからお金を使う先は増えており、このままでは毎週ジャンプを購入することは難しい。しかし西先生の連載がスタートしてしまえば購入を止められなくなる。それゆえ、読む前に我慢をしよう。そういう発想だったのである。

あれ以来8年の月日が流れた。西先生の新作「ぼっけさん」は短命に終わってしまった。途中、「ピューと吹く! ジャガー」の最終回が掲載された号は購入したが、連続してジャンプを買うことはなくなった。しかし、2016年の11月、私は再びジャンプの定期購読に手を伸ばす。きっかけは「僕のヒーローアカデミア」で、第1話から全くまともな会話ができていなかったデクとかっちゃんがついに対話をしたという話をつかんだからであった。マジかよ! オタクは葛藤の末決済ボタンを押し、かくして毎週月曜日の朝にはアプリ「ジャンプ+」を速攻で起動するようになったのである。

 

前置きが長くなった。購読は現在も続けている。ジャンプは、面白い。読むところが多いというか、面白さの打率が異常に高いのである。

買い始めた当初は、話の流れが追えている作品はほぼヒロアカのみだったが、続けて読んでいるとだんだん物語の輪郭がはっきりしてくる。まず最初に面白いと思ったのは「約束のネバーランド」だった。子供達が養い親が見つかるまでの期間を過ごす孤児院が実は子供の肉を出荷するためのプラントだった、という度肝を抜く設定と、それを知った賢い子供達がどうにか「ママ」の目をあざむき孤児院を脱出して外で生きる手立てを模索する……というクローズドな場所で繰り広げられる心理戦は、確かに世間的な「ジャンプらしさ」からは遠いものだったが、読んでいる時の「来週どうなんの!!!!!!???????」という高揚感は確かに「ジャンプ的」だ。

さらに青葉城西戦の途中までしか読んでいなかった「ハイキュー!!」も、久しぶりに読みたくなって最新刊まで一気にレンタルして読んだ。めちゃくちゃ面白かった。あんなに部活にドライだった月島が、白鳥沢戦ではチームの屋台骨になっているではないか……。成長の幅があまりにも大きくて泣けた。

そして「左門くんはサモナー」だ。最初はギャグ漫画として楽しんでいたが、どんどん細かい人間描写が感動するほど緻密に作り込まれていることに気づいてしまい、夢中になった。友達がいないのにプライドが高い人間にここまで刺さるコメディはない。(この話はいずれ単独の記事でお目にかけたい。)

そのほかにも独特の絵柄と台詞回しがくせになる「鬼滅の刃」、異常にテンポのいいギャグ漫画「青春兵器ナンバーワン」など、一冊の密度がめちゃくちゃ高い。これが月900円でいいのか? おかげで月曜の朝に二度寝することがなくなった。

 

……二度寝。そう、今私は大学生ならではのクソ長い春休みを過ごしている。あんなに高い学費を払わせておいて一年の三分の一が休みってちょっとどうかと思う。やることがない。私の周囲は皆就活に向けて動いており、それぞれ忙しそうだ。

私は進学希望なので、特に喫緊の課題もなく消化試合のような毎日を過ごしている。長期目標しかない日々はやる気が出ない。友達と遊ぼうにも皆企業説明会だの何だので結局予定が合わない。時間ができると自分の人生とは……みたいなことを考え始めてしまい、将来の先行きが何も決まっていない不安で内臓がつぶれそうになる。冬から春という季節の変わり目は体調にも影響を及ぼしており、頭痛や倦怠感で起き上がれなくなるとさらに将来への不安を考え始めてしまい……という地獄ループである。

ジャンプを読みながら8年前の自分を考える。中学受験のストレスを救ってくれたのはMr.FULLSWING家庭教師ヒットマンREBORN!だったし、痛い創作意欲を手助けしてくれたのはBLEACHD.Gray-manだった。今年の私は再び受験生という身分である。今後日々のだるさや周囲の空気に当てられる時の焦燥感に耐え抜く時、再び週刊少年ジャンプを懐に抱くことになるだろう。「来週またあの漫画の続きが読める」という希望は、いつだって先の見えない一週間を照らしてくれるのだ。

「差別する身体」記事を下げることについて

賛否両論あった記事について、公開をやめることにした。

理由は「どうすれば適切なのかわからなくなってきた」からである。

私自身が考えていることがうまくまとまっておらず、不適切な表現も使ってしまった。その上で、間違いをその都度正し、その考えの過程を全て公開することが真摯な対応なのではないかと思っていたが、それも少し違うような気がした。

今回のことは、考えや伝え方についてたくさん間違えた。どう伝えるのが適切なのか、何を誰に伝えるべきなのか、精査が必要だと判断したので、記事は撤回する。

また結論が出たら何かしらの形で出せればと思う。

「腐向け過ぎて萎える」とは何か

「ユーリ!!!オンアイス」について考えている。

今期の覇権と呼んでも差し支えない盛り上がりを見せる今作は、男子フィギュアスケートを題材とし、男性の肉体を徹底的に性的に描いたアニメーションだ。スランプに陥ったフィギュアスケーターが憧れのトップスケーターの導きでグランプリファイナルを目指す、という少年漫画的な性格のストーリーを持つ一方で、登場する男性キャラクターは「感情移入の対象」ではなく「性的消費の対象」として描写されているようにうかがえる。

少年漫画的な筋書きなど、エロ以外の「物語」を備えながら本質的には「性的消費」(特にBL的消費、そして夢ジャンルとしての消費など、いわゆる「女性向け」市場を想定した消費)を待っている作品を、仮に「擬態作品」と呼んでおこう。(擬態の度合いには作品によってばらつきがあり、もちろん判断の微妙な作品もある。)「ユーリ!!!オンアイス」はまさにこれだった。もちろんスポーツを通じて高みへ登る挑戦をする主人公の姿を見て励まされる人がいる、というのも事実であろう。しかしそれと同時に、勇利とヴィクトルが抱き合い、「俺を誘惑しろ」「僕だけを見ていて」と囁きあい、氷の上で恍惚の表情を浮かべるというあからさまに性的なボーイズラブ・アピールは、明らかに画面の向こうで興奮するオーディエンスの姿を想定した上での描写だ。すなわち、そもそも「腐向け」的消費がなされるために計算されているのである。

 

腐女子腐女子向けに作られたものを喜べない」という言説は広く知られている。主語を「腐女子」とすると大きすぎるが、一部のBL愛好者がBL文脈での性的消費を想定した描写に対して抵抗感を持っているのは確かだ。現在ツイッターで「ユーリ 萎える」などで検索すると、「公式が狙いすぎていて萎える」などの苦言が多く見受けられる。(その一方で「公式 狙いすぎ」で検索すると、あからさまな腐向け描写を歓迎するつぶやきが多く見られるので、あくまでこれは「一部」のクラスタの感性なのだ)

それはなぜなのか? なぜBL消費者の一部は「ターゲットとして想定される」と「萎える」のだろうか?

 

BL消費者の大部分を占める存在=腐女子の中には、自分が存在しない世界を希求している人がいる。

もともと、なぜ男同士の恋愛を女性が消費するのか、という問題があるが、無限にある理由のうちの一つとして、「自分が存在しえない世界でなければ安心して恋愛/エロコンテンツを楽しめない」というものがある。(私はそれにあてはまる腐女子であり、逆に言うと、自分と恋愛/エロコンテンツの直結さえなければ、かなり奔放に欲望をさらけ出せると自覚している。)

女性とエロコンテンツとの距離感には数多くの社会的な問題があると言っていいだろう。私は専門家ではないので細かい論証はできないが、男性と比べると女性がエロについて語ることは圧倒的に「許されていない」。

BLはそれを救う存在だ。あの性的ファンタジーの文脈の中では、男と男が愛し合ってセックスをするとき、私たちはどこにもいない。全ては男と男のための記号に成り下がる。BL漫画というジャンルにおいては、多くの場合、読者の身体と直結させることで感情移入できるよう「設計された」キャラクターが主人公になることはないのである。*1 

 

すなわち、BLを読むとき自らの視点をどこに設定するかは、読者の裁量に委ねられているのだ。自己を自己の身体から際限なく拡張して攻めあるいは受けに感情移入するという人もいるだろうし、背景に書き込まれたモブや二人の男が寄りかかる壁に感情移入する人もいるし、神の視点で完全に人界から己をシャットアウトする人もいる。

BL作品に没入するBL消費者は、「自分」を好きな濃度で希釈できるのだ。

 

話を戻してみよう。

結論から言うと、「腐向け」を「狙ってる」ことが「萎え」につながる傾向を持つBL消費者にとっては、明らかな擬態作品は「自分のいない世界」にならないのだ。

つまり、「BL消費者からの目線」を想定している限り、作品の中にBL消費者からの目線が組み込まれていることになる。その時点で、「自分」=「BL消費者」は作品世界の中にメタ的に存在していることになり、「自分のいない世界」の完璧な成立が不可能になるのである。

(完全に関係はありませんが、「観測されると振る舞いを変える」という意味では一部の腐女子に近いものを感じるので、量子力学の記事を置いておきます)

 

作品に想定されることを避ける人がいる一方で、もちろん男性がエロティックに描かれることを性的消費が許されているサインのように思う人がいるのも確かだろうし、考え方は千差万別だ。つまり、ユーリオンアイスのような性的消費への意識が非常に強い作品においては、人によっては作品世界へのアプローチを行うことが非常に難しい場合があるのである。「自分のいる世界」に対して二次創作の必要性を感じなかったり(私はここに入る)、あるいは「萎える」という言葉で作品世界に組み込まれることから抵抗したりするのは、そういう理由なのではないだろうか。

 

これは私が私自身について考えて考察した結果なので、客観性に欠くだろう。女性と恋愛/エロコンテンツの距離感や意図的な複雑化は非常に興味深いものだと思う。そういうことにも目を向けながら、ひとまずこれからのユーリオンアイスを楽しみにしていきたい。

 

 

*1:アンソロジー「女子BL」など、それを逆手に取った作品は少なからず存在する

秋のインタビュー祭り〜音楽と人増刊「LiNK.」11/9発売〜

 秋ですね。みなさんいかがお過ごしでしょうか? 秋といえば秋の夜長ですが、日が暮れてからの長い時間をどう使っていいやらお困りではないでしょうか?

 

そういう時はやっぱりインタビューを読むといいと思うんですね。ウェブでも雑誌でも、会ったことのない人の話を聞くのは興味深いことですよね。

 

というわけで、ついに雑誌デビューします。

 これ!

11月9日(水)発売の雑誌「LiNK.」にて!!!

文豪ストレイドッグス」のインタビューをさせていただいています!!!

 

 

 「音楽と人」の増刊号として発刊される、アニメと音楽を結ぶ素敵な雑誌です。表紙はうたプリで、他にもおそ松さんやキンプリなど人気作の記事が載っているようです! 大きなうたプリのポスターもついているようです。詳しくはリンク先で!

 私がお話を伺ったのは主演・中島敦役の上村祐翔さん&キャラソンクリエイターのみなさま。演技への情熱から音楽との向き合い方、キャラの解釈までぎっしりな内容になっているのでぜひチェックしていただければと思います!

 

 初めて雑誌の仕事をさせていただきまして、非常に有意義な体験をしたと思います。ライターを始めてから1年半ぐらい経つのですが、「雑誌で書かせていただく」のは一つの目標であり夢だったので、とても感慨深いです。

 

とにかくぜひチェックしてください。

 

そして秋のインタビュー仕事として、こちらもやらせていただきました!

 先月の記事になりますが、ラッパー・COMA-CHIさんのインタビューです!

 個人的にもとても「救われる」パンチラインが多く出てきて、仕事関係なくとても励みになりました。社会が作り上げた枷をぶち壊していく、COMA-CHIさんのエネルギー溢れるメッセージをぜひ読んでいただけたらと思います。

COMA-CHIさんの10周年記念アルバム、全部最高なんですけど、特に「衝動」が超絶いいのでぜひ聴いてください……「誰がなんと言えど君は君 誰にも奪えない生きる意味」ってもう、今一番必要とされてる言葉じゃないかなと思います……。

 

 

 つい先日21歳になり(お祝いしていただいたみなさま、ありがとうございました!)、お仕事もいろいろやらせていただいて、この10月は盛りだくさんだったな〜と思い返しています。

 やらないといけないこととやりたいことのバランスをとりつつ残りの2016年も頑張りたいです。

 

 LiNK.は9日発売ですからね! よろしくね!!!!

 

 

 

オールタイム・BL漫画・ベスト10選

個人的な「好きなBL漫画」10作品のレビューです。

※順不同

 

・木村ヒデサト「鬼は笑うか」

鬼は笑うか (マーブルコミックス)

鬼は笑うか (マーブルコミックス)

 

木村ヒデサト先生がいかに天才的なBL漫画家か分かる一冊。

商業BL界に君臨する金字塔として、中村明日美子「同級生」シリーズがあるが、「鬼は笑うか」はある種「同級生」のアンチテーゼと言えるかもしれない。

「まじめに、ゆっくり、恋をしよう。」というテーマのもと、「同級生」では初々しい少年たちの純情な恋愛が描かれ、二人は「20歳になったら結婚してください」という約束まで取り付ける。18歳で一生一緒にいたい相手を見つけ出して幸せになる、それは確かに恋愛の形としてたいへん素晴らしくて古典的に人気のあるストーリーだが(同級生のすごいところはそれを丁寧に丁寧に描ききったこと)、同時にそれは極めてBLらしい幻想だろう。同性愛ファンタジーであるBLというジャンルは今まで何もかもを可能にしてきたが、それはもちろん現実とは異なっている。

「鬼は笑うか」は、両思いになった少年たちが、自分たちの愛の保証のできなさに泣く物語である。

優しい両親のもとで育った主人公・星谷が、父親に暴行・ネグレクトされ、体育教師からも性暴力を受けているクラスメイト・柏瀬に寄り添おうとし、二人が懸命に気持ちを通わせていく物語が、淡々としたリアルな描写で描かれていく。コミュニケーションは通じたり通じなかったりする。二人はそれでも手を握り合う。

「このままだと僕たち一緒にいられる理由がなくなっちゃうんだよ……?」「この先柏瀬は誰を好きになって僕は誰を好きになるの」「3年前出会ったばかりの僕たちなのに」「まだ 好きでいたいのに……!!」

最終話で自分たちの関係の不安定さに彼らは涙を流し、それでも日常は流れていく。悲しいことはなくならないけれど、日常は更新されていって、その中には楽しくて少しずつ土台になっていくものもあるのだ、という人生のあっさりした手触りを見せてくれる最高のBL作品である。

 

・木村ヒデサト「マリアボーイ」

マリアボーイ (マーブルコミックス)

マリアボーイ (マーブルコミックス)

 

 木村ヒデサト作品からもう一冊。木村先生は「子供」と「大人」の世界の差異をさりげなく描くのがとても上手いと思う。

表紙を飾る傷だらけの男が、今回の主人公・ヨシキだ。血の繋がらない弟のなおとを自分の息子としか思えなくなっているヨシキは家族との距離の取り方が分からなくなり、家を飛び出して体を売って暮らしてきた。水商売から足を洗って美容師として働く今でも、親には会わずじまいだし弟への執着は治らない。体の関係や金以外で、相手を大事にする方法がわからないのだ。なおととその恋人・シュウは、なんとかヨシキに家族との関係をちゃんと構築してもらうべく奔走する。

今作は、傷だらけの「マリアボーイ」ヨシキが、弟たちに背中を押されて少しずつ幸せに近づいていく過程を追った回復の物語である。どれだけ人生の中で間違いを犯して何かが歪んでも、人から受けた傷は人から得たもので癒せるのだ。暴力描写とトラウマの様相が濃いので苦手な人にとってはややキツイかもしれないが、後半で描かれるヨシキと素性の分からない年下の男・玲太との恋愛模様を読めば必ず温かい気持ちになると思うので、そこは耐えて欲しい。

なお、こちらの作品はカバー裏に重要な設定がびっしり書き込まれているので、単行本での購入を強く勧める。

 

・のばらあいこ「寄越す犬、めくる夜」

寄越す犬、めくる夜 1 (Feelコミックス オンブルー)

寄越す犬、めくる夜 1 (Feelコミックス オンブルー)

 

 BLの中では「ヤクザBL」というものが1ジャンルとして隆盛しているということは周知の通りである。そこに「寄越す犬、めくる夜」が革命を起こしたのは、「W受け」という凶悪なスパイスを挟み込んだからだ。

ストーリーは非常に重い。裏カジノでディーラーとして働く主人公・新谷(攻め)が同僚のチンピラディーラー・菊池(受けその1)が起こした横領事件に巻き込まれ、菊池の借金返済に協力することになってしまう。菊池が金の工面のために体を売り始める中、新谷はカジノ店の副店長でありヤクザの愛人でもある須藤(受けその2)に「援助交際」を持ちかけられる……というあらすじだけで胃もたれしかねない。ここまで読んで「新谷がかわいそう」と思われる方もいるかもしれないが、これが天下ののばらあいこ作品であることを忘れてはいけない。

新谷は「かわいそうな人に勃つ」性癖の持ち主なのだ。

この一言だけで、罪と罰で回転する悪夢の三角関係がさらにどす黒い様相を見せ始める。「生まれて初めて優しくしてもらった」と不安定な精神を抱えて新谷に惚れ込む菊池、クスリ漬けの生活を送り、気まぐれに新谷を翻弄しながらも自分の暗い過去を匂わせる須藤。三人を繋ぐのは金と性欲だ。逃げ場はない。

「いるよね、ああいう何が普通なのかわからん子ってさあ……」

世間から後ろ指を指されて生きるはぐれ者たちの夜が淡々と描かれるノワールBLの傑作。現在2巻まで発刊されているが、どのような着地点を見るのか今から非常に楽しみである。

 

・のばらあいこ「秋山くん」「秋山くん2」(既刊2巻)

新装版 秋山くん (マーブルコミックス)

新装版 秋山くん (マーブルコミックス)

 

 

秋山くん2 (マーブルコミックス)

秋山くん2 (マーブルコミックス)

 

のばらあいこ作品からもう一作。のばら先生の作品は作者買いしております。 

すごくシンプルでいいタイトルだと思う。秋山くん(受け)の彼氏は柴くん(攻め)と言うのだが、「秋山くんと柴くん」ではなくて、「秋山くん」なのだ。つまり、柴くんが秋山くんのことを、大事に大事にしようとする物語なのである。

秋山くんはダウナーなヤンキーで、親が帰ってこない家や喫茶店や気まぐれに来た学校の隅でぼーっとしているきれいな男の子だ。柴くんはたまたまカツアゲされていたところを秋山くんに助けてもらい、それ以来秋山くんにずっと片思いしている。ひょんなことから柴くんの思いは通じ、体から始まった二人がウブなコミュニケーションを繰り返す、極めてラブリーなストーリーがたまらない。

BLにおいて、自分と性別は同じなのに圧倒的に「違う」他者をどう受け入れるかというテーマに関してはいつも多彩な作品が触れてきた。それを語らずにあっさりと乗り越えさせてしまうのがこの作品のすごいところかもしれない。

「秋山くん」の中で起こる、クールな不良とストーカー気質のナードくんがそっと手を握るような恋愛は、誰の目に見てもはちゃめちゃにかわいいに違いない。

 

・はらだ「よるとあさの歌」

よるとあさの歌 (バンブーコミックス Qpaコレクション)

よるとあさの歌 (バンブーコミックス Qpaコレクション)

 

 多作なはらだ先生の作品の中で一番好きな作品。

ベースが抜けた主人公・朝一(攻め)のバンドに、朝一への片思いを募らせて途中加入してきたヨル(受け)。女好きな朝一はヨルの気持ちを徹底的に否定するが、歌うヨルの姿を見てからうっかり興奮、体の関係を持つようになり……というバンドマンもののストーリー。

大筋としてはBLではおなじみの「大っ嫌いなあいつがだんだん気になりだして、最終的にカップルになる」というものなのだが、はらだ作品は常に予想の一段上を行くので安心してほしい。それがBL界の革命、「砂利ローション」だ。

終盤で突如乱入するヤクザ、そしてヤクザによってレイプされてしまう朝一、彼の尿道に挿入される砂利入りのローション!!という怒涛の暴力を叩き込んでくるくせに最後はきれいにまとめきる、読み終わったらスタンディングオベーションしたくなる名作である。ヨルの一途さ、文句無しのエロシーン、全てひっくるめて尋常でない満足感をもたらしてくれる一冊。

 

・丹下道「恋するインテリジェンス」(既刊3巻)

恋するインテリジェンス (バーズコミックス リンクスコレクション)
 

 究極のアホエロといえば私の中ではこれ一択である。

連続性のある短編オムニバス形式でストーリーが展開されていくタイプの作品で、登場するカップルはほとんど全員が官僚だ。とにかく設定が濃く、基本的にキャラクターは皆異常な金持ちである。受けと自宅で事に及ぼうとする攻めが自然に「寒くない? 暖炉強くする?」と言い、受けが視界からいなくなると「どこにいるの? プールかな?」と言いながら探す。お前は宮殿に住んでいるのか??????

しかし恋するインテリジェンスの「ヤバさ」はここだけではない。「潜入捜査の訓練のために合法的に常にエロいことができるバディ制度」「男でも母乳が出せるようになる薬」「若い美形官僚を家に招いてエロいことをしようとしてくる大物政治家」「それを助けるために大物政治家の邸宅の壁を高級車で突き破って出て来る攻め」など、正直笑いが止まらないレベルのBL設定が2秒おきに飛び出してくる。例えるなら叶姉妹だらけの水泳大会というか、ゴージャスなんだけどゴージャスすぎて笑うしそれ使ってそんなことすんの? え? みたいなシンプルな驚きに濃厚なエロシーンが相まって、う〜〜ん、要するに最高!!!!

 

・トウテムポール「東京心中」シリーズ(既刊6巻)

東京心中 上 (EDGE COMIX)

東京心中 上 (EDGE COMIX)

 

 起承転結で盛り上げる波乱万丈ドラマでは全くない。「東京心中」は、ただ二人の男と彼らの周辺の人々の生活を描くお仕事漫画であり、同時に明確にBLなのだ。 

やりたいことが見つからない主人公の宮坂(攻め)は、「なんとなく」でテレビ番組制作会社のADになるが、そこで美形のプロデューサー・矢野さん(受け)に出会い、「矢野さんの役に立ちたい」という一心で仕事に邁進していく。人間より映画が好きで徹底的にマイペースな矢野さんと、一途で家事と気配りが大好きな宮坂のカップルがひたすらテレビ番組制作という激務に追われる生活を描いたコメディー作品であり、BLが苦手な人でも読み易い。

 この漫画の稀有なところは、キャラクターの生活感覚と記憶がとても生々しい点だと思う。矢野さんが語る子供時代の飼い犬「けん」の思い出や、岩手出身の宮坂が生前分与でもらった家を地元の友人に土地ごと貸している話など、本筋には特に関係がないのに出てくるエピソードが一つ一つ手触りと質感を持っていて、人物造形を丁寧に構成しているのだ。何度読んでも友達の話を聞いているような近さがある。トウテムポール先生は本当に天才だ……。

 

・ヨネダコウ「囀る鳥は羽ばたかない」(既刊3巻)

囀る鳥は羽ばたかない 1 (H&C Comics  ihr HertZシリーズ 129)

囀る鳥は羽ばたかない 1 (H&C Comics ihr HertZシリーズ 129)

 

 悲しいことを悲しいこととして描くのは平凡だ。しかし悲しいことに直面して誰にも救いを求められない当事者にとって、一番簡単な自己防衛は「これは別に悲しいことじゃなかった」と考えることである。

「囀る鳥は羽ばたかない」は、淫乱ビッチの若頭・矢代と、とあるトラウマからEDになった矢代の手下・百目鬼を軸に展開されるヤクザものBLだ。BL要素を抜きにしたヤクザ漫画としても面白いと評価される濃密なストーリーと同時に、矢代という男の寂しさと残酷さが少しずつ見えていく。

とにかく必読なのは、1巻に収録された短編「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」だろう。(公式ツイッターで公開されているので要チェック!)矢代がヤクザになるまでを描いた前日譚とでも言うべき番外編だが、ここで徹底的に描かれる矢代の苦悩と歪みはBL云々関係なく胸に刺さるはずだ。些細な幸福も握みにに行けなかった一人の男の歴史が切ない。まだ物語は続いており、こちらもどのような結末が待っているのか今から恐ろしくもあり楽しみでもある。

 

・SHOOWA「イベリコ豚と恋と椿。」「イベリコ豚と恋の奴隷。」シリーズ(既刊3巻)

イベリコ豚と恋と椿。 (GUSH COMICS)

イベリコ豚と恋と椿。 (GUSH COMICS)

 

 

イベリコ豚と恋の奴隷。 (GUSH COMICS)

イベリコ豚と恋の奴隷。 (GUSH COMICS)

 

 

イベリコ豚と恋の奴隷。 (2) (GUSH COMICS)

イベリコ豚と恋の奴隷。 (2) (GUSH COMICS)

 

 日々ゴミ拾いに精を出すヤンキー環境美化集団・イベリコ豚のメンバーの恋愛模様を描いた超人気シリーズ。一応主人公はイベリコことイベリコ豚のリーダー・入江×跳ねっ返りの他校生・椿のカップリングなのだが、シリーズ第1巻「イベリコ豚と恋と椿。」の半分と続刊シリーズ「〜と恋の奴隷。」前編は、無口で不器用な二年生・源路×トラウマを持つ組織のNo.2・吉宗のカップルが描かれる。この二人がもう、最高。

私はとにかく「受け入れようとする年下攻め」が「経験豊富で暗い過去のある年上受け」に翻弄される話が大好きなのだが、まさにこの作品はドンピシャストライクだった。

 

(以下はネタバレを含むので、筋書きを知りたくない人は読まないでください)

 目を見張るのは「恋と椿。」収録の吉宗の回想シーンである。雀荘で出会った悪い男にひっかかり、肉体関係を持ち、言われるがままに覚せい剤のパッキングを手伝い、果てには無理やり3Pするところを映像に撮られてしまうという、堕落と破滅の道を突っ走る15歳の頃の吉宗がめちゃくちゃに痛々しい。(雀荘でヤクザと出会ってズブズブの関係になる回想が読みたい人は前述の「囀る鳥は羽ばたかない」も読もう)

 彼の不安定で寄る辺のない刹那的な生活は、 刺青の彫り師から言われた「君はこっち側の人間じゃない ちゃんと日の当たるところに戻りな」という一言でようやく終わりを迎えた。心に残ったトラウマと閉ざされたいくつかの感覚は、源路のまっすぐな愛で少しずつ治癒していく。絶対に幸せになってくれ! あと20巻ぐらい続いてくれ! と叫びたくなることは間違いない。

 

・阿仁谷ユイジ「ミスターコンビニエンス」

ミスターコンビニエンス (ビーボーイコミックスデラックス)

ミスターコンビニエンス (ビーボーイコミックスデラックス)

 

 今年の夏にリニューアル版が発売された作品で、元は2008年に刊行されている。

 最近あまり流行の兆しを見ない(私が知らないだけでどこかで隆盛しているのかもしれないが)「方言もの」で、九州の田舎のコンビニを舞台に博多弁で繰り広げられる恋愛劇である。主人公は地位も顔も彼女も「そこそこ」のコンビニ店長・北村(31歳、攻め)。このままごく普通の安定した生活が続くのかと思っていたが、ゲイのアルバイト・南原(21歳、受け)に告白されたことで日常が少しずつ変化していく。

 阿仁谷ユイジ先生の絵は「肉」というものと徹底的に相性がいい。人間の体の曲線、二の腕や太ももや指先や耳殻、唇やそこから覗く舌の、優雅にふくらんで流れるラインがとにかく美しくてエロい。31歳の凡庸な男の変わりばえのしない日々に、突然現れた21歳の美青年の美しい肉体が鮮明に映るときの戸惑いと高ぶりは、阿仁谷先生の筆でなくては伝わりきらないだろう。最後に挿入される物語に絡んでくる女の子のモノローグも、後味に心地よくほろ苦いものを添えている。

 

 

こうして振り返ると、BL一冊一冊に思い出がある。15歳の頃に地元の本屋(今はもうない)でドキドキしながら買ったもの、友達からクリスマスにもらったものなど、私の人生の中にはいつもBLがあった。このラインアップはあくまで20歳現在のもので、きっとすぐにまた更新されていくだろう。これから先も末長くBLと暮らしていくのだという確信とともに、私はまた本屋で名作を掘り続ける。