左門くんはサモナーが終わってしまった

※ネタバレ注意

 

 

 

左門くんはサモナー」が終わってしまった。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

 沼駿「左門くんはサモナー」は、ジャンプで連載されていたコメディ漫画だ。こういう記事を書くぐらいには、私はこの漫画に強い思い入れを持っていて、ジャンプの読者アンケートでは毎週一位に指定していた。

終わる兆候は前から少しずつ現れていた。やけに核心に近づいた話が増えたり、伏線がみるみるうちに回収されていったりする中で、毎週もしかしてこれは、いやそんなことはない、とずっと気をもんでいた。何より、順位が芳しくなかった。

 

 終わってしまった。正直、もっとこの作品を読んでいたかった。唯一の慰めは、最終回が白眉の仕上がりであったことである。

 

 上に挙げた記事にも書いた通り、左門くんはサモナーの主人公はひねくれていて卑屈で友達がいない「カス虫」左門くんだ。そして彼の「相棒」は、その優しさから「仏」と呼ばれる天使ヶ原さんである。それだけ聞くと善悪二元論で塗り分けてしまえそうなキャラクター設定に見えるが、そう見えるのはお互いの解像度が低いからだ。物語が進むにつれ、二人はお互いを知り、経験を共有し、どんな人間なのかを知っていく。人が白黒ぱっきりと割るわけではないことを理解してゆく。(詳しくは上の記事を読んでほしい)

 

 最終回周辺では怒涛の勢いで物語が回収されていった。キーポイントの一つが「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である!」という天使ヶ原さんのモノローグだが、これは実は最終話では繰り返されない。最終話の一話手前で反復され、最終話は左門くんと天使ヶ原さんが二人で「負けたら地獄に墜とされる」という無謀な戦争へ旅立つ場面で終わっている。

二人はきっとこのあと負ける。そして、地獄に堕ちる。

それがあまりにもエモーショナルで悲しくて、でも明るくて、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。

 

 

 左門くんは高校を卒業してからさらにストイックに修行に励み、その結果地獄の三大支配者に目をつけられた。戦いに勝たねば地獄に堕ちることになる。その戦争を控えたタイミングで左門くんが算文町に戻ってきたのは、おそらく敗北を視野に入れたからだろう。死を迎える可能性を考えて高校時代の思い出の場所にやってきた左門くんは、天使ヶ原さんと偶然再会する。天使ヶ原さんからかつての友人たちの近況を聞く左門くんは、以前より角が取れた印象だ。

「僕もいよいよ地獄に墜とされるらしい」

左門くんが天使ヶ原さんにそう告げると、天使ヶ原さんは軽々と「私も一緒に行ってあげるよ」と微笑む。「心中じゃない」と補足するが、人の世の理が悪魔相手に通じるわけではなく、失敗すれば天使ヶ原さんも巻き添えを食うだろう。それでも彼女は、これからどうなったって別にいいよ、とでも言うように、左門くんの戦争に同行すると申し出るのだ。「善は急げだよ」天使ヶ原さんは悪魔との戦争についてそう言う。これから始まるのは左門くんの身勝手な生き急ぎが招いた自滅の戦争なのに、天使ヶ原さんからすれば「左門くんの味方になってやる」ことは「善」なのだ。それを聞いて左門くんは、初めて天使ヶ原さんを褒める。「君って、悪い女だな」--ぱっと見では悪口にしか聞こえないが、これは確かに褒め言葉なのだ。今までずっと「いい子」扱いしかされてこなかった天使ヶ原さんが、「悪い女」と呼ばれて喜んでいるシーンがある。左門くんはそれを覚えていて、わざわざ天使ヶ原さんをそう称するのだ。左門くんの人生のうち、天使ヶ原さんほど多くの経験を共有した相手はいなかった。二人の間だけで伝わる特別な意味が、この一言には込められている。

 

 そして二人は地獄へ赴く。きっと二人は負けて地獄へ堕ちる。なぜなら「これは私が地獄に堕ちるまでの物語である」と最初から断言されているから。

 

 自分の道を各々見つける友人たちの姿が示された。出会ったときは最悪の仲だった二人の間に、唯一無二の特別な関係が築かれたこともはっきりと示された。そして二人は、人には触れない場所へ、誰にも知られないうちに消えていく。絶望ではなく、信頼と好意によって。

それがどうしようもなく切ないのだ。

 

 左門くんと天使ヶ原さんの関係は、友達でも恋人でもない。言葉にできない、「白黒つけられない」ものだ。そんな二人が姿を消すことは、きっとハッピーエンドでもバッドエンドでもない。終わりが「良い」か「悪い」か、白黒意味付けする必要はない。

 

 「左門くんはサモナー」は本当に良い漫画だった。面白かった。ここで終わってしまうのは惜しいと心から思う。ここまで描いてくれた沼駿先生に感謝と慰労の気持しかない。また沼駿先生の新作が読みたいともちろん心から思うが、今はただ、左門くんはサモナーという名作についてじっと感傷に浸りたい。

 

 

 

プリパラ劇中歌レビュー(2) 私は私の道を行く

 

rinriko-web.hatenablog.com

  前回(といっても1年半前)に書いた記事がわりと好評であることに今更気付かされたため、続きを執筆してみようという気になった。

プリパラの劇中歌のクオリティは一期から極めて高いものだったが、前回から1年半の時を経て素晴らしい楽曲がさらに多数生まれてきている。今回もいかにプリパラの世界を彩るアイドルソングがウェルメイドなものか、紹介していきたい。

 

 

ドロシー&レオナ・ウェスト「Twin mirror♥compact」

 歌詞はこちら

 前回の記事でも述べた通り、一人称が「僕」の女の子・ドロシーと、一人称が「私」の女装少年・レオナは、ドレッシングパフェで活動する極めて仲のいい双子である。一期では「僕とレオナは二人で一人だから」と言ってらぁらとみれぃのチームに入ろうとするなど、お互いをお互いの半身と見なしてきたことが分かる。

そんな二人にも、転機が訪れた。二期の終盤、レオナは紫京院ひびき率いる天才チームへの誘いを受け、ドロシーと初めて異なるグループに属することを自ら選んだのだ。

今まで何でも一緒にやってきて、何でも共有してきた双子が、ついに違う場所に立つ。その痛みは我々には想像もつかないほど大きく、衝撃的だったことだろう。そのため、二人はどうしても儀式を必要とした。それがこの「Twin mirror♥compact」だったのである。

Twin mirror♥compact ハートとハートがchu!

少し怖いけどバイバイ(見つめてバイバイ)

Twin mirror 覗き込んで 涙の跡ふいて

離れていたって『LO♥VE』繋がる!

twin mirror 開いたら 勇気を交換こ

あのね気持ちは一緒さ(だから大丈夫)

一人になるのは 悲しいことじゃない

おニューな二人で また はしゃごう! 

  鏡のついたコンパクトは、開けば二枚貝のように片方ずつが違うものを映す。しかし結局は一つのコンパクトなのだ。お互い違う場所で涙の跡を映したとしても、鏡の向こうでは愛で繋がっている。

 双子は離れたことがなかった。だからこそ、「離れていても繋がっている」ことをお互い再確認しなければならなかったのだ。そしてそれは、二人にとってまたとない飛躍の機会でもあった。

似てるようで似てないheart 鏡に映す未来

ほらね 僕は僕 私は私で

 この歌詞を歌った時、ドロシーとレオナは「二人で一人」だっただろうか。きっと違う。お互いがもっと素晴らしいアイドルになるために、むしろ「一人が二人」になったのだ。意図的に同じものとして生きてきた二人は、それを一度やめ、「僕は僕」「私は私」として「似てるようで似てない」 ことを言葉にした。すさまじい勇気だと思う。でもその別れの痛みは成長痛だ。再び同じ場所へ戻ってきた時のドロシーとレオナは、傷だらけの強靭な身体で、世界一軽やかに踊る。

 

 

ちゃん子「Just My Chance Call」

 歌詞のリンクを貼りたいのだが、この音源は昨年春の映画のDVD特典として収録されており、歌詞サイトに掲載がない。残念だが各自DVDを買うなり借りるなりで鑑賞してほしい。

そういう歌詞のリンクを貼れない曲でありながらここで紹介せざるを得なかったのは、この曲がそれだけ伝説的だからである。曲を歌う「ちゃん子」は、その名の通りの女の子だ。今の美醜の基準で言うなら、いわゆる「アイドルにはなれない」容姿の持ち主である。実際作中では、クールで天才肌のキャラクター・そふぃの親衛隊として登場している。

しかし、しかしだ。プリパラの合言葉は「み〜んなトモダチ! み〜んなアイドル!!」なのである。みんなアイドルなのだ。そう、ちゃん子はアイドルだった。誰にも似ていない、誰も真似できない圧巻のパフォーマンスを携えて、ステージに上がる。ラストのサビを引用しよう。

Nobody beats the me! 譲れないのは glamorousなChance call!

Fight Back 弱気 教えてあげる 誰が最強か

死ぬ気でかかってこい

勝つ気でかかってこい

暴れて! 私の愛! Come on!!

 この曲が披露されたのは、映画でアメリカの地下ファイトクラブに送られてしまったそふぃ親衛隊の面々が、「勝ち抜かなければ一生ここから出られない」と言われ、全員の命運が託されたちゃん子が女レスラーとの戦いに挑む……という、女児アニメにしてはハードコアすぎる展開の最中であった。

 サビだけで雑魚はふっとびそうな圧倒的パワーがある。なんたって「教えてあげる 誰が最強か」「死ぬ気でかかってこい 勝つ気でかかってこい」が連続して突きつけられるのだ。そこにあるのは力と力のぶつかり合いだが、同時にそれは暴れだしたら止まらない「私の愛」であり、その「愛」とはまぎれもなくアイドルのアイなのだ。

 そして「Nobody beats the me!」である。ただのmeではない。「the me」なのだ。唯一無二の私を生きる、こんなこと私にしかできない、他のヒョロいアイドルどもとは一味ちげえんだ。そういう気概が、たった一単語でビンビンに伝わって来る。

 「太っている」ことは「美しくない」と、誰が決めたのだろうか? そんなものは単なる文化の刷り込みだ。だってちゃん子はこんなにも美しい。仲間のために敵を粉砕し、勝利のリズムで四股を踏みながらグラマラスに踊り続ける、彼女ほどかっこいいアイドルはいない。プリパラは、あらゆる価値観を受け入れるのと同時に、たくさんの新しい美を生み出す場所なのである。それがきっと、今日も誰かを救っているはずだ。

 

UCCHARI BIG-BANGS「愛ドルを取り戻せ!」

 歌詞はこちら

三期最大の衝撃であった、うっちゃりビッグバンズの新曲である。アイドルのアイは、つまり愛なのだ。うっちゃりとは土俵際から巻き返す相撲の逆転技のことで、まさに神アイドルグランプリの敗者復活枠からよじのぼってきた気概が込められている。

まずメンバーが濃い。前述のちゃん子に加え、エキセントリックな天才デザイナー・北条コスモと、コスモの学生時代からの親友にしてプリパラ一はみ出た魅力を持つ美術教師・黄木あじみがチームになったのだ。この三人からドロップされたのがメタルだなんて、聞く前にお腹いっぱいである。

歌詞は極めて感覚的だ。韻を織り交ぜながら語呂合わせと勢いで語られる力強いサビの中に、あじみの際限ない美術ダジャレが振りかけられる。その中で語られるのは、「私は私」という意思なのだ。

翼の折れたヒロインたち

傷だらけのHeart & soul

それでも空を目指すんでしょ

誰にも似てない自分だけの青空

時代の風を揺らすんなら

不毛の大地に 咲かせようよアイデンティティ

  普通とはなんだろう。きっとそんな価値基準に意味はない。うっちゃりビッグバンズが目指すのはいつだってオリジナルだ。「誰にも似てない自分だけの青空」は、分厚い雲を自ら切り開いた先にある。

 だからこそ三人は世紀末の空へ飛翔するメイキングドラマを作ったのだろう。時代の風が自分たちと違う色をしていて、その流れがめちゃくちゃ強かったとしても、それをぶち抜いて揺らして個性を開花させる。アイドルになるために、愛以外何も必要ではない。土俵際はむしろチャンス。うっちゃりで世界が変わるなら、うっちゃりするしかないのだ。

  

 

北条そふぃ「Red Flash Revolution」

歌詞はこちら

映画「プリパラ み~~んなでかがやけ!キラリンスターライブ」でお披露目になった北条そふぃのソロ曲である。

この映画と北条そふぃというアイドルについて考えるとき、ひとつの騒動について触れねばならない。それは二期のエンディング曲「胸キュンラブソング」のとあるカットについて、BPO放送倫理・番組向上機構)から批判が寄せられたことである。その「とあるカット」こそ、そふぃが肩ひものはだけたランジェリーのようなワンピースをまとった絵だった。

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批判が来たのち、そのカットはなんとオーバーオールの肩ひもをはだけた漁師ルックのそふぃに差し替えられた。「肩ひもがはだけている」ことを批判されたので、逆にそこだけは貫き通したプリパラの「抵抗」は、極めて鮮烈に映った。

これは公式になんのソースもないので「私はそう受け取った」というだけの話だが、おそらくプリパラ製作サイドはこの事件について相当根に持っているのだと思う。確信に至ったのは、映画でそふぃが背中や腹がばっくりと開いた極めてセクシーなドレス姿を披露したことだ。ステージで踊るときには違う衣装に着替えるのに、わざわざステージに登場するシーンで挑発的なまでにセクシーなドレスをまとうというのは、明らかに地上波でやって批判されたことを映画館でやり返してやる、という強い反抗心だった。(さらに映画では白い下着風のワンピースを着たちゃん子がセクシーに椅子にもたれるシーンが挿入される。これもまた「性」を遠ざける人々への挑戦なのだと思う)

前置きが長くなった。妖艶な姿で現れたそふぃが歌い出すのがこちらの「Red flash revolution」である。音楽的なことは正直あまりわからないのだが、曲調はキューティーハニーのテーマ曲を思い出させる。そう、キューティーハニーと言えばセクシーな女の子が戦う古典的人気作品だ。プリパラはそふぃという美神を通じ、セクシーであることもまた女の子が選べる楽しい選択肢なのだと主張しているのではないか。

救ってあげるわ! 解放しちゃえ!

さあ、鳥籠なんてbreak out  革命のRed Flash

最後のこの一節には、プリパラという仕組みが何気ない顔で抱える巨大な許しが現れている気がしてならない。プリパラではなりたい姿になっていい。求めるものに手を伸ばすことが許されている。元々アイドル像に縛られてきたそふぃが、今度はせせこましい価値観に囚われる「小鳥ちゃんたち」を救うのだ。そういうプリパラの強さを見せつける、系譜を感じる一曲である。

 

南みれぃ「TRIal Heart~恋の違反チケット~」

歌詞はこちら

この曲は「南みれぃ」「弁護士みれぃ」「検事みれぃ」の三つに分岐したみれぃが歌唱するミュージカルめいたロックチューンだ。パラレルワールドでどうやら恋に落ちたらしい南みれぃをめぐり、二人の法の番人=みれぃが裁判で争う。アイドルに恋愛は許されるのか? 気持ちに嘘をつくのはよくないわ!と微笑む弁護士みれぃ、その主張には根拠がない!と畳み掛ける検事みれぃ。ライブシーンでは三人のみれぃが歌い踊る極めて不思議な光景が繰り広げられる。

ぶりっ子と呼ばれる質の人が嫌われるように、コミュニケーションに関しては「一元的であること」が重視される場合が多い。素直だとか腹を割って話すとか、「本物の自分を見せる」ということがそのまま相手への信頼を意味する状況は頻繁にやってくる。

 みれぃの分裂をめぐるストーリーには、一期の名エピソード「ぷりのままで」が極めて重要だ。アイドルとしてのみれぃは本当の自分ではないのではないか?と惑うみれぃは、最終的に「どちらも私なのだ」という結論を見つけることになる。

そう、全てみれぃなのだ。みれぃでいいのだ。彼女の心のやわい部分を暖かく認めて想いを遂げさせようとする弁護士みれぃも、ルールを守ることに至上の価値を認めて厳しく自律を迫る検事みれぃも、どちらもみれぃなのである。彼女は将来何になるのかまだ決めかねているし、異なる姿を行き来する。その揺らぎは素敵でポップで限りなく魅力的だ。ぶりっ子だとか本心じゃないとか、他人が想定する「本物」などに価値はない。

 

トリコロール「Neo Dimension GO!!」

歌詞はこちら

この曲を初めて劇場で聴いた時、度胆を抜かれた。トリコロールが「完成」してしまった、と思い、打ち震えたのである。

トリコロールのデビュー曲である「Mon Chou Chou」は確かに名曲であるが、時期の焦りやメイキングドラマの強引さも含め、トリコロールとしての「お披露目」であり「自己紹介」としての側面が大きかったように思う。それぞれの良いところを持ち寄って、自分たちを説明するイントロダクションだった。

ところが、Neo Dimension GO!!のトリコロールは、巡り合った劇場を完璧に支配してみせる「真骨頂」であり、まさに今までより次元が一つ上なのである。

その名はプリパイレーツ号 星より輝くBODY

唯一無二の海賊船 荒波を蹴散らし

遥か彼方 伸びるトリコロールライン

自由に生きるのが使命よ

NEO DIMENSION 生んで 広げて 進めGO!!

Neo Dimension GO!!は、並行宇宙のひびき・ファルル・ふわりが宇宙海賊の気概をダイナミックなハーモニーで歌い上げる一曲だ。思えばこの三人の関係は奇妙なものだった。トラウマを抱えながら自らのエゴでふわりを選びふわりを捨て、ファルルに憧れて肉体も捨てようとしたひびき、ひびきとの関係に苦しみながらもひびきを愛し抜き、強引な手段を使ってでもひびきが自分の触れられない領域へ去ろうとすることを阻止したふわり、そして二人の想いを暴力的なまでに受けながら微笑み続けるファルル。「嘘」と「本当」でねっとりと絡みついたこの三人がチームになれるとは、正直思わなかった。それでも三人は、愛によって三人でステージに立つことを選ぶに至った。

Mon Chou Chouでも繰り返し現れる言葉だが、もうこの三人に嘘も本当も関係ない。大事なのはトリコロールが「唯一無二」であることだけだ。過去に囚われるために使える時間などもはやない。全てを噛み締め、乗り越えながら、情熱のままに求めるものを追いかける自由さを手にいれたトリコロールの、最も完成された演劇。それがNeo Dimension GO!!なのだ。上演場所はこの世で最も広い場所がふさわしい。やはり、宇宙である。

 

 

今回はここまでで筆を置くことにする。現在シリーズ4期となる「アイドルタイムプリパラ」が放映中だが、個人的にはドレッシングパフェの新曲を心待ちにしている。この先もプリパラというコンテンツへ全面的な信頼を寄せ、追いかけていきたい所存だ。

映画「サウダーヂ」感想

※ラスト含めネタバレ満載ですのでご注意ください。

 

 小学生の頃、ルイス・サッカーの「穴」という小説が大好きだった。無実の罪でグリーン・レイク・キャンプという少年院に送られた主人公がえんえんと懲罰のために穴を掘り続ける話だ。死ぬほど好きだったはずなのにあとの展開は何も覚えていない。今読めばまた面白いのかもしれないけど、あの本は今手元にない。

 穴を掘ることが懲罰になるのは、穴の中で人間は孤独だからだ。自分は何をしているんだろうと思う。それでも掘れる限りは掘る。スコップを地面へ突き立てて土を掘り返してもまだ土がある。土があるなら、まだやることがある。

 

「地球のうらがわまで掘りまくれし!」

 これは映画「サウダーヂ」のキャッチコピーだ。「掘りまくれ!」ではなく「掘りまくれし!」。甲州弁である。映画のロゴを見ると、タイ語ポルトガル語で併記がされている。甲州弁、ポルトガル語タイ語、これらが飛び交う町・山梨県甲府が、物語の舞台となる。

この映画が、とにかく、今まで見た映画の中で一番面白かったので、今日はその話がしたい。

 

 あまり関係ない話、というか私の体感でしかないのだが、「何でもいいから何かが起これば自分の現状が打破されるのではないか」というほの暗い期待のようなものが、今の社会にはなんとなく存在していると思う。生前退位改元するんじゃないかとかゴジラで東京がめちゃくちゃになるとか、少なくとも私はそういう風景を見て高揚したし、自分の日常が打破されることに恐れと期待が同居している自覚があった。

一番嫌な形で「日常」が「打破」された東日本大震災から5年経って、また社会が嫌な方向にぐいぐい進んでいくのを見ている今、私が自分自身についてずっと考えているのも、偶然じゃないはずだ。私もまた、穴を掘っている。穴という巨大な空洞。

 

 「サウダーヂ」は群像劇で、主にスポットライトが当てられるのは土方の青年たちだ。パチンコ中毒の親と精神異常をきたした弟を抱えながら、HIP-HOPクルー「アーミービレッジ」の一員としてラッパーをやりつつ土方の仕事を始める青年・猛と、子供を望む妻をあしらいながら先の見えない暮らしを続ける土方の精司。そこに、ヒッピーぶって「ラブ&ピース」を広げたいと話す猛の元カノ・まひるや、ブラジル移民の一家に生まれて山梨でラップをしている青年・デニス、家族のために故郷のタイを離れてパブで働くハーフの女性・ミャオらの暮らしが絡んでいく。

 

 そこに漂うのは閉塞感である。ヤクザと政治家と肉体労働者と移民が同居する田舎町を、家族や仕事を背負って毎日歩いていく。家路は変わらないし、帰宅すれば同じ人がいる。不安定な暮らしという一定のリズムの中で、猛にも精司にも「寄る辺」はなかった。彼らは精神の柱という部分に空洞を抱えている。その穴はいつのまにか掘られていた。何かが変わりはしないかと、みんな期待している。

寄る辺がない人々はどうやって生きていけばいいのだろう?

 

 映画の内容を全部説明することは難しいので、田我流演じる猛について、説明して考えてみたい。

猛は、自分の暮らし向きが良くないのは全て外国人移民のせいだと信じ、ちゃちな論理で右翼を気取っている若者である。「大和魂を見せてやる」と意気込んでブラジル人移民のHIP-HOPクルーと対決しようとするが、ブラジル人たちは特にアーミービレッジのことを見ていない。言葉が通じていないのだ。

元カノのまひるは、「わたしはず〜っと、味方だよ」と言い、猛に東京行きを勧めた。しかしそのあとに続く言葉は、「わたし気づいたの。世界に敵なんかいないって」というヒッピーの薄っぺらすぎる一般化された愛の言葉だ。まひるもまた、ちゃちな物語に酔うしかない行き場のない女性だった。

いくら止めてもパチンコが止められない両親。怪しい言葉をぶつぶつつぶやいている右翼かぶれの弟。ヤクザからの勧誘。

猛は外国人を憎んでいる。敵さえいなければきっと日常が打破され、是正されるのだと考えて、怒りを貯める。

 

 映画は猛の顛末で終幕する。

自分の外国人への怒りを理解してくれないアーミービレッジの仲間たちに失望した猛は、「東京で音楽業界関係者の知り合いを紹介する」と言ったまひるを最後の希望と信じて彼女を探す。しかし、まひるはブラジル人男性と親密な仲だという噂を耳にし、よく確認もせずに猛はその希望も捨てた。そしてナイフを持って街に出、ブラジル人青年のデニスを刺してしまうのだ。

デニスを刺したあと、猛はアーミービレッジの溜まり場へ戻ってきて、笑いながらデニスを刺したことを伝える。弟の面倒を見てやってくれ。たまにでいいから。昔遊んでただろ、本当にたまにでいいんだ、頼むよ。あっけにとられて黙ってしまった仲間たちにそう最後に告げると、おもむろに携帯電話を取り出して、彼は自首をした。

パトカーに押し込まれながら、最後、猛は手錠をかけられた手を掲げる。

ついさっきまで絶望していたはずの仲間に向かって、笑顔で。

 

 こんなにキツイものが他にあるだろうか?

 この映画はほとんど全てがディスコミュニケーションでできている。全員が孤独な穴の中で土を掘りながらうめき声をあげる。声は聞こえても何を叫んでいるのかは分からない。点と点がずっと繋がらない。

ここではないどこかを夢想し、自分でない誰かを勝手に望み、ろくに話したことのない誰かを敵視する人々が、どうしようもなく辛い。そこまでどん底に落ちて全部が嫌になっても、まだ人を求めている!

猛が事件を起こしてもアーミービレッジの仲間に対してずっと笑顔でいるのは、刺したことがおかしかったからでも、楽しんで笑っているわけでもないのだ。ただ、赤ん坊が母親にするように、自分が笑えば相手も笑ってくれるんじゃないかと、誰かに好意を返して欲しい一心で笑うのだ。

猛は決して悪い人ではなかった。弟の支離滅裂な話を否定せずに聞いてやったし、親のパチンコ通いも必死に止めようとしたし、ヤクザになるのもダメなことだとちゃんとわかっていたのだ。最後だって、弟のことをよろしくと頼んで自首をした。それでも、彼を駆り立てるものは彼の凶行を止められなかった。

 

 どうして人間は人間の群れでなければ生きていけないんだろう。群れでないと生きられない生き物にするなら、なぜつらいことをつらいと感じる機能がついているのだろう。なんでこんなに愚かなんだろう。なんでこんなに辛くても死ぬのは怖いんだろう。なんでまだ人と話したいと思うんだろう?

 

 分からない。正解はない。これを極めて冷徹な俯瞰の目線で撮り切ったことが、もう、事件の域である。

 

 「地球のうらがわまで掘りまくれし!」

地球の裏まで掘ればブラジルにつながってるよ、ちょっと曲がったらタイだよ、こんなに簡単なんだ。

麻薬を吸いながら男がそう語る。今その瞬間に隣に住んでいるブラジル人やタイ人とはつながれないままなのに、穴を掘ったその先の新天地を夢想している。

 掘るしかないのだ。

 

 

 

以上が支離滅裂ながら私の「サウダーヂ」の感想である。語りきれない名シーンも、素晴らしい映像も、ここではお伝えしきれていない。私が書いたことはあくまでも作品のごくごく一部にすぎないことを明記しておく。

DVDになっていない作品なので、ぜひ機会があれば逃さずに足を運んで欲しい。

 

私が許せなかった国と体、あるいはPerfumeという祝福について

※2015/11/23にnoteに投稿した記事の移行版。内容改変なし

Perfumeワールドツアー3rdのドキュメンタリー「WE ARE PERFUME」を見た。
Perfumeとは、何だろう?
Perfumeの映画を見ながら、私は不思議と自分について考えていた。
先にいっておくけど、私はこういう自分とすばらしいアーティストを絡めてものを考えることに滅茶苦茶な羞恥を覚えている。自分で書きながら気持ちの悪い自己陶酔の一種にも見えている。それでもあえて書く。それを汲んで怒らずに読んでくれたら嬉しい。
わたしが今までの人生をとてもとても多目に見たとして、それでも受け入れられないものが二つある。国と体だ。
私は自分を国の中の人間だと知っているし、故郷が好きだし、その故郷は日本なんだけれど、日本という言葉を口にするとき、いつもぐじゅっと胸の奥にわだかまる何かを感じてきた。ナショナリズムへの嫌悪とか単純に今の国への憎しみとかそういう口に出せる言葉の外にも、それは微妙に広がっている。それがなんなのかは私にもわからない。
そして体。
体を動かして楽しかったことがない。
明治維新以降、少しずつ列島生まれの肉体のすべてが義務教育で統一規格を教えられるようになって、私ももちろん体の使い方を学校で教えられたけれど、私の体はそういうことに適しておらず、体育は常に低評価をくらい続けた。体はままならぬものだ。美しくもない、思うようにも動かない、そして持っている限り一定量の私に関する情報を勝手に開示し続けるこの肉体から、逃げられないことがつらい。
体に蓄積される努力でよじ登る生き方ができたことはきっと一度もない。全部その場しのぎだし、私は全部「やり過ごしている」。

そういうものを忌み、避けてきた私は、多分「胸の奥にわだかまる何か」と同じ色をしている。もとの形をなくして崩れている汚泥のぐしゅぐしゅ。
Perfumeはわたしの真逆だ。
自分のからだを子供の頃から鍛え上げ、努力をし、涙をのみ続けてやっとチャンスを得て成功した。ふわっとそこに現れた美ではない。しっかりと重ねた日付を我が物にしてきた、威厳ある体だ。
楽屋に飾られたライブ成功祈願の色紙には「日本のいいところを知ってもらえますように」とか、ライブ前のあーちゃんの叫び「大和魂みせちゃる!」とか、そういう普段の私ならざわっとくる言葉を、彼女たちはすっと体に通すように軽やかに使って見せる。(Perfumeがどう考えているかという話ではなくて、それを見た私のざわつきの程度の問題として。)それは彼女たちがジャパニーズ・ポップスの発信者として、何度も国境を越えてきたからだ。なんのてらいもなく、私たちはもっと高みへ上る!と宣言できる清々しさを持っているからだ。
美味しいものを口にしておいしいと言い、お客さんにあいさつされて笑顔で答え、事務所の会長に肩を触られても平然としている。目の前の相手に敏感に反応して求められる通りに応え、体を駆使して踊り、それを全て楽しむ……。

彼女たちには澱みがない。求められたことを理解し、喜んでそれに応え、全てを清らかに受け入れる。私が許せなかったものを軽々と抱くperfumeを、私の目が神々しく認めずにいられるわけがなかった。
エンディングでSTAR TRAINが流れ始める。「l don't want anything」というサビのフレーズが、全てを要約したと言えよう。
受け入れて喜ぶことを祝福と言うのなら、perfumeは水面に映った全ての人間を聖別する<香水>かもしれない。

プリパラ劇中歌レビュー 攻撃、意志、多様性

※2015/09/06にnoteに投稿した記事の移行版 内容改変なし

TVアニメ「プリパラ」は、すべての少女をアイドルに変えるサイバー空間「プリパラ」を舞台にしたアニメーションである。あらすじから漂う気配の通り女子小学生がメインターゲットなのだが、ところがどっこい、劇中歌のクオリティが異常に高い。聞けば聞くほど沁みる。アイドルにありがちな薄っぺらい歌詞ではなく、「私はこう生きる!」という指針を叩きつけるような、凄まじい力強さを持っているのだ。
今回は実際にどの歌詞がどういいのかを解説していきたいと思う。
★太陽のflare sherbet(北条そふぃ)
歌詞はこちら
この曲は、のちに主人公チームに加入することになる天才アイドル・北条そふぃが、まだソロで活動していた頃から歌っていた彼女のテーマソングだ。
本当の自分を隠して自分のアイドルとしてのスイッチを強制的に切り替え、一人ステージに立っていた彼女の、パワフルな世界観を詰め込んだ一曲だ。ファンを引っ張っていく求心力に満ち満ちている。
「もし荒野の星 一人佇む光あればそれは私 たとえば深海たゆたう未来作り上げるのは私」というAメロは、あなたたちのアイドル、あなたたちを導く光こそ自分なのだ、という強烈なメッセージだ。心細くなっても、どう生きていいかわからなくなっても、この「太陽のflare sherbet」を耳にすれば行動する勇気が湧いてくることだろう。
Aメロは2番の方もさらに激烈だ。「ただ待つだけなら犬でもできる さあありったけの武器持って闇を切り裂くわ やがて希望と私の蜜月が来る」なんて、こんなに攻撃的な言葉を歌えるアイドル、好きになるしかないではないか。犬は何かに従う動物だ。待っているだけでは何も変わらず、主体性のない日々を流すだけである。そふぃは犬にならずに武器を手にして立ち上がれと呼びかけた。武器とは歌でありダンスであり、闇を切り裂く光そのものだ。そして闇を打ち砕く存在こそ、そふぃになぞらえるための「太陽」なのである。
この世に太陽が1つしかないのと同じように、そふぃも一人しかいない。自分を太陽に例えることができるアイドルが、この世界に何人いるだろう?「君を撃つ太陽のflare sherbet」とはそふぃの輝きであり、迷える者たちの闇を振り払う矢であった。体にまとわりつく何もかもを振り捨てて、今は私という太陽を見ろ。そふぃはそう言っているように感じられるのである。しかし前述の通り、これはアイドルとしてのそふぃで、この曲一曲だけしか持たないうちのそふぃは、まだ窮屈な檻の中に閉じ込められていたのであった。
★「No D&D code」(ドレッシングパフェ)
歌詞はこちら
ドレッシングパフェが死ぬほど好きだ。その理由は、彼女らの持つ純粋な暴力性と独立する存在感にある。
タイトルの「No D&D code」の「D&D」とは、DressとDreamを指す。すなわち、衣装も夢も、私たちは自分で選び取るし、指定される筋合いはない! という強靭な意志表示なのだ!
Aメロから見ていこう。「次々めくるめく出会いと別れに手を振る暇はない」。しょっぱなからこれである。巷にはお別れは寂しいねとか君のことは忘れないよといったテーマの歌があふれているが、ドレッシングパフェはそんな悠長なことは言わない。お前らに手を振ってる暇なんかねえんだよと叫ぶ。しかもデビュー曲の頭から!これで痺れない人間がいるなら出てきてほしい。
この態度は、歌詞が「戸惑い立ち止まる時間が惜しいわ がむしゃら全霊で人生は猛スピード」とつながっているように、ドレッシングパフェは目の前の事実をどんどん受け入れて先へ進む力を持っているということを意味している。とにかく前向きなのだ。「泣きたくなるのはそう 悔しいから その感情はPower」という通り、過去の出来事を引きずることなく、涙も全部次に跳躍するための踏み台にしていく、底抜けのハングリー精神が気持ち良い。
劇中のドレッシングパフェは、気に入らない校則があれば校長室に木刀持参で殴り込みに行き、怪獣相手にはたった3人で戦いを挑むなど、とにかく行動がはみ出していて攻撃的だ。
プリパラのテーマは「み〜んなトモダチ!み〜んなアイドル!」である。トモダチは小学生にとって巨大な財産であり、みんながトモダチになってくれたら、それは素敵なことだろう。私もそう思うしみんなそう思っている。ところがドレッシングパフェは、「信じられるのはそう 友達よりBestなJust Partner」と言ってのけるのだ。トモダチなんて甘い、私たちは次の場所へ行くのだと、彼女たちは言う。どれだけ進んだとしても、我々はドレッシングパフェの輝く背中を追うことになるのだ!
「Do it! Do it! Do it! やるなら1秒でも早く Dress codeを破るよ」「Dream codeなんてルールいらない」「Dream codeなんてジョーダンじゃない!」と叫び倒すサビはもう最高である。お前たちが決めたルールはいらない、私たちは私たちのスピードで私たちがやりたいことをやりたいようにやるんだという尖りに尖った意志がビンビンに伝わって来る。こんなにはみ出したドレッシングパフェも歓声で受け入れるプリパラもまた、素晴らしい場所にまちがいないのだ。
★HAPPYぱLUCKY(そらみ♡スマイル)
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結成からしばらく経ち、少しずつアイドルグループとしての成熟を迎え始めたそらみスマイルの名曲である。
彼女たちは一人一人がお互いの足りないところを補い合う素晴らしいグループだ。誰も相手を否定しないし、出来ないということを責めたりはしない。
「悲しい時こそ涙の声聞こぅ 怖くない側にいるよと君は笑ってくれた」「後ろ向きな気持ち なんて邪魔だった でも君はそれも私の欠片だと受け入れた」という歌詞が私は大好きだ。悲しいとかネガティブな気持ちに浸ってしまっても、それを否定せず、あなたの一部だからそれでいいんだという真摯な態度で向き合って受け入れる。こんなにストレートで美しいコミュニケーションはない。だからこそ「大好きよ 大好きだ ありがとう」という直接的な言葉を惜しげもなく歌えるし、「そうなんだ そうだよね わかってた 君と君が 私たちが 出会い信じ合えたら無敵だね」という最強の認識を共有できる。
「皆の力借りたらできるよ」「私のこれからを 君といく未来を ねえ ほら 前を見よう」とは、一人一人信じ合う絆を確信した言葉だ。
その上で「なるよ神アイドル」「『楽しい』のそのまた上の世界 トコトンがデフォルトです このまま突っ走るよ カンペキじゃないけどね カンペキ目指す!!」と野心的な目標を掲げる。私たちには、素晴らしい仲間とそれを受け入れるだけの絆があり、そして高い目標があり、それを叶えるためにトコトンやりぬく意志もある! ということをファンに叩きつけた、そらみスマイルの真髄を味わえる一曲なのだ。
★CHANGE!MY WORLD(ドレッシングパフェ)
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先に述べた通り尖りに尖ったアイドルグループ・ドレッシングパフェはNo D&D codeで自己紹介を終え、次のステージに来た。
そもそもドレッシングパフェは、非常に多様なものを抱えて調和している。この曲の要はメンバーの双子、ドロシー・ウェストとレオナ・ウェストであろう。一人称が「僕」の女の子・ドロシーと、プリパラに入れるほぼ唯一の男の子である女装少年レオナは、プリパラの自由さを象徴する存在である。
そして東堂シオンだ。彼女は囲碁の学生チャンピオンだが、自分以上の人間に出会えない囲碁の世界から一度身を引き、自分を高めるため、街角で見かけたプリパラTVに触発されてアイドルの世界に飛び込むという、根っからの求道者である。アイドルになる理由としてあまりにも謎だ。該当でそば打ちの映像を流していたとしたら今頃彼女はそば打ち職人になっていたのではなかろうか。不動のセンターではあるものの、それはシオンが天才的だからという訳ではなく、両サイドに収まると双子が丁度いいという理由でのセンターである。そういう部分を含めて、自由人たちが集合してしまったドレッシングパフェの不思議な調和は、この曲によく顕われているのだ。
「だれだってみんな持ってるの ホントの自分輝くPLACE 見つけたのなら教えてね 願った心の奥の想い!」というサビは、本当に優しいし、その態度を必然として持っているドレッシングパフェの生命力が美しい。押し付けがましくなく、ただ私たちは自分の輝ける場所にいるからあなたも自分の輝ける場所で輝いて、そういう場所にたどり着いたら教えて、という、ベタベタしない友情が心地よく思われる。相手に左右されない独立した自分を持つ彼女たちが、共有しない部分はしないし共有したい部分はしようよ!という明るい方向性と距離感を示してくれる。
ドレッシングパフェは装わない。「ホントの自分」が輝ける場所としてプリパラにいるし、「楽しくなきゃ意味がない」から「情熱のまま」踊る。それを見ていて巻き込まれてしまわないわけがない。だからドレッシングパフェは誘う。「『ボクだって』なんておもうより 『ワタシも』って一緒に、笑お!」「オンナノコも♪オトコノコも♪歌おうよ♪LET’S CHANGE MY WORLD!」という通り、多様な人間が自分たちを見て輝ける場所を探しに行ってくれることを、彼女たちとプリパラは願っているのである。
今回はこの4曲までで止めておくが、プリパラの劇中歌にはこのほかにも素晴らしいものがたくさんある。また余力があれば他の曲のレビューも書こうと思うが、まずは原曲を聴いてみてほしい。プリパラがある限り、世の中はまだ捨てたものではない。

底抜けに明るい地獄「血界戦線」

※2015/07/15にnoteに投稿した記事の移行版 内容改変なし

 血界戦線のどこが良いかと聞かれたら、それはやっぱり人間である。私は人間が好きなんだと思う。血界戦線ではちゃんと人間が人間で、社会が社会だから、より生々しい「倫理」が味わい深いのだ。
血界戦線では、画面の向こうに人が生きている。
「大崩落」によって再構築され、異界が流れ込んだ元ニューヨーク=「ヘルサレムズ・ロット」で、主人公レオナルドは生活を始めた。自分のせいで視力を失った故郷の妹に、目を返すためだ。
ヘルサレムズ・ロットは端的に言って地獄である。毎日のように暴力が噴出し、人が死ぬのも特異なことではない。異界から来た者は容赦ない差別にさらされる。システムはまるで世界についていけていない。
しかし、人間はどうか。私たちは「異常」に慣れる。ヘルサレムズ・ロットの人々も、もはや非日常が日常であって、とっくに世界に適応しているのである。人間の力は環境への適応にある。

血界戦線の世界において、最も環境への適応が早いのはザップだろう。彼は何もかもを受け入れる力がある。師匠に不可能とも言える無茶な命令をされても「師匠なりに考えがあるんだろう」と一瞬で納得するし、無法地帯であるヘルサレムズ・ロットで女と酒と薬とギャンブルに溺れることはある意味凄まじく素直な行為だ。
彼はその場にある物を見ている。頭が悪いのは確かだが、現実をそのまま見てそのまま飲み込むことは、純粋な戦闘において凄まじい才能だろう。(目の前にあるものだけしか見ていない、という取り方もできるし、それに伴うデメリットも存在している)
そして、現実を見て受け入れているからこそ、ヘルサレムズ・ロットという場所のルールを嚥下し、それが特異であることも認識している。
ネジ回でレオナルドとジャックロケッツバーガーについて話すシーンで、彼はなんのてらいもなくハンバーガーチェーンの差別的な経営方針について語る。ジャックロケッツバーガーがトレードマークをテイクアウトの包み紙に印刷していないのは、異界のものが自社製品を食べていると印象が悪くなるからという話だ。
レオナルドはそのエピソードに怒るのだが、その反応を見たザップは、お前もヘルサレムズ・ロットに染まったな、と言うのだ。まだヘルサレムズ・ロットの外では異界のものなど化け物でしかなく、人間に対等だと思っている人間は希だということを、ザップはよく知っている。
ザップ自身が差別的かといえば、そうでもない。確かにザップは対象が気持ち悪いと思えばそう言うのだが、逆に何に対してもそうなのである。化け物だと思ったから化け物と言い、魚類に見えたら魚類と言い、陰毛に見えたので陰毛と呼ぶ。
つまり、彼は良くも悪くも「子供」なのだ。目の前にあるものに飛び付くことができる。彼ほどヘルサレムズ・ロットに似合う人間はいない。あの街で「楽しく生きる」ためには、柔軟に現実を受容し愛するのが一番手っ取り早いからだ。
ではレオナルドはどうか?
私が血界戦線を好きになった理由の一つが、彼の態度でもある。
ネジの話を思い返そう。レオナルドは異界生物であるがゆえにジャックロケッツバーガーが買えないネジに、自分が代わりにバーガーを買いに行ってやると提案する。それはそれまでネジにバーガーを買っていた男が定価の16倍の値段をふっかけていたからであり、それをネジが仕方のないことだとして諦めていたからだった。
レオナルドは別に正義に燃えているわけではないのだ。ただ彼は、ネジが法外な値段を払わないとバーガーを食べることもできないという不平等さに怒り、自分のできる範囲で解決を図ったのだった。

また、友人になったネジに対して、レオナルドは「ネジの種族に母親って概念ある?」と尋ねる。これが、うまく説明できる自信がないのだが、いいなあ、と思ったのだ。相手を決めてかからずに、相手と自分が違うことを理解しながらコミュニケーションを取ろうとする態度と、それを自然なこととして当たり前に行うレオナルドは、本当に優しいのだと思う。
相手を必ず相手として扱い、思いやり、困っていれば自分のできる範囲で全力で助ける。普遍的に見えるこのレオナルドの行動は、ヘルサレムズ・ロットにおいては簡単に出来ることではない。我々のような普通の人が、こうできたらな、となんとなく思い描く「優しい自分」が、レオナルドに重なるのだ。
ザップとレオナルドは育ってきた環境も人としての性格やスタンスもまるで違う。それでも仲のいい先輩後輩として、楽しくやっている。彼らだけではなく、そもそもライブラ自体があらゆる出自の人間を抱えており、その中で上手く成立している。その明るさは、アニメのEDを見れば一瞬で理解できるだろう。
ここでもう一度、ヘルサレムズ・ロットについて考える。あの街は端から見れば地獄だ。異形のものも死もすぐそばにある。その中にあって、ザップは街に順応し、レオナルドは「優しい人」であり続ける。だからこそ、血界戦線は明るい。命をいくら削っても何度死にかけても、彼らは彼らとして芯が揺らがない。場所がどこであろうと、自分が「やるべきことは分かる」ならば、動揺も暗い見通しも必要ないからだ。
変動する世界がリアルに描かれるなか、それは際立って楽しい。
ライブラのメンバーは地獄でも躍り続けるのである。

物語世界構造/舞城王太郎「JORGE JORSTAR」の証明

※2015/06/12にnoteに投稿した記事の移行版 内容改変なし

 物語は世界である。
わたしたちの生きている世界と同じように、人が生き、暮らし、空が変わり、雨も降るし気温も上がったりする、そういう世界である。もちろんそうでない世界もあるが、それだって多元的世界である。そのなかに、登場人物は存在している。
「物語」の人物が生きる世界を、物語世界と名付けよう。この物語世界は、作者が作り上げた世界である。作者は作り上げた物語世界に接続し、それを良く見て、必要な情報を抜き出して私たちに伝える。私たちはそれを読んで、物語世界に思いを馳せる。
ここで立ち止まる。物語には主人公が不可欠だ。しかし現実世界に主人公というものはいない。自分が世界の主人公だと思える人は少なくとも希である。物語世界は現実と同じく多元的で複雑な世界であるにも関わらず、作者の意志という存在が、何者かに主人公補正をかけて、ドラマに編み上げる。そしてその主人公の物語を伝えやすくするため、印象を操作するために、物語世界の中のものを舞台装置へ仕立てる。つまり、作中のオブジェクトには、現実に存在している場合以上の意味が与えられる。それは物語世界が文章や絵や映像といった伝達能力が限られた媒体によってのみ作られるからであり、巨大宇宙たる物語世界をその媒体に落としこむときは必ず情報の取捨選択がなされるからだ。限られた条件でできる限り物語の情報量を増やすならば、一つのオブジェクトに付けられた意味を増やしていくしかないのは当然の展開であろう。
物語世界の中にあるものたちは、現実に生きている顔をして、実は作者という創成の神と、その神から各々に与えられた「主人公のための意味」に、「見て見ぬふり」をしているのである。

前述したとおり、主人公を主人公にしているのはひとえに作者の意志だ。しかしそれに主人公は気づかない。「俺って主人公補正かかってる主人公なのか」と自認する主人公はいない。それが違和感のある行為であることは、「ギャグ漫画日和」に出てくるエピソード「平田の世界」がよく示しているだろう(参考:ピクシブ百科事典「平田の世界」)。キャラが自らを物語の中の人物だと認識することは、ある種のタブーとも言えるのだ。
舞城王太郎。偉大な作家、私が最も尊敬し愛読するところである彼は、「物語」の構造そのものを暴いてしまった。
まず、舞城王太郎に付き物である「見立て」は、ミステリー小説を意識しながら作中のモチーフをメタファーと見なして解釈し、事件の解決=作者の意志に自らを持っていこうとする行為であった。この時点で「物語を生きることを知っているキャラクター」という超越した関係がこっそり成立しているのである。
そして、舞城王太郎の名著「JORGE JORSTAR」を見てみよう。これは舞城王太郎が「ジョジョの奇妙な冒険」を題材に書いた長編小説だ。ジョジョといえば究極の主人公補正と読んでも良いかも知れない。それはジョースターという血族であり、主人公たちはみな「黄金の精神」と戦いの運命を受け継いだ選ばれた者だった。
舞城王太郎がそこで主人公に選んだのはジョージ・ジョースター、つまりジョナサンの息子で、本編では全く出てこないと言っても差し支えない人物だ。彼は間違いなく主人公の資格を宿しながら、主人公にはならなかった。
同作のなかで、トンペティ(一部に出てくる波紋使いの師匠)がジョージに、お前はいずれ死ぬと告げる。ジョージがえー…という反応をするところで、トンペティは「やっぱり死なないかもしれない、君次第だ」と教えた上でこう付け加えた。引用しよう。

「君には何か……この世の神とは違う、君のための個人的な神のようなものがついとるようだな」
懐かしい台詞だ。個人を恣意的に選ぶ神。

ビヨンド。

そしてその存在を、僕は《世界を超越した場所で僕を操るもの》、『ビヨンド(BEYOND)』と呼んでいる。と言っていたのは名前を思い出すのも久しぶりの九十九十九だ。
師トンペティは続ける。「君も話としては知ってはいるようだな。それを信じるかどうかだジョージ・ジョースター。それを信じるなら、君は死なない。それを信じきれないなら、君の宿命通りだ。君は恐ろしいものに残酷に殺される」

 

つまり、舞城王太郎は、作中でジョージが自分によって主人公にさせられていることを告知してしまったのである。
ジョージにビヨンドの存在を自覚させる「九十九十九」は、さらにジョージにこう告げる。

「やあ。君の道具だよ。君を必要としてる人がいる。僕が連れてくからね。」

"名探偵"を必要としている異世界へ飛ばされるジョージを誘う九十九十九は、自分が舞台装置であることを明確に意識している。そして九十九十九というキャラクターは、舞城王太郎の小説には頻繁に出てくるが、元は清涼院流水の小説JDCシリーズに出てくる名探偵だ。この作品で物語の枠を飛び越えて九十九十九が現れるのも、またジョージにとりつく「ビヨンド」の意志である。
舞城王太郎九十九十九」ではビヨンドがついていた九十九十九は、「JORGE JORSTAR」においては自らが装置であることを悟る。
ジョージはビヨンドに世界を救わせるために動く。さらに舞城王太郎の凄まじいところは、この作品の中にはビヨンドが付いている人間が一人ではない点だ。ジョナサンの息子であるジョージ・ジョースターに加え、繰り返した宇宙の平行世界に産まれた、英国人の養子である福井県ジョージ・ジョースターにもビヨンドはついている。そしてさらに、ディオにもビヨンドは寄り添っている。
これらのビヨンドの正体が誰なのかは分からない。しかし同じ物語世界のなかで別のビヨンドがそれぞれの主人公を選べばどうなってしまうのか?
戦争である。物語はスタンド使い同士の戦いから、「ビヨンド使い」の戦いへと進化をとげる。もはやビヨンド使いがビヨンド使いでなければ倒せないことに説明はいらないだろう。
「JORGE JORSTAR」には、ジョジョ=荒木飛呂彦世界、舞城王太郎世界、清涼院流水世界が混在している。それぞれがビヨンドである。そしてジョジョには世界の循環と平行世界がある。これらの要素をすべて飲み干した舞城王太郎は、ジョジョノベライズという格好の舞台の上で、みんなが見て見ぬふりをしていた「物語世界と物語そのもの」という仕組みをさらけ出してしまった。さらにその仕組みをキャラクターに告知し、本来作者のみが持っていて然るべきメタ的視点をキャラクターたちに与えてしまう。キャラクター本人が物語の合理性を考えて行動するようになってしまう。全ての枠、物語世界と世界そのものの接続を、舞城王太郎は全く自由に解放したのである。
舞城王太郎「JORGE JORSTAR」は、アマゾンレビューを見てもらえば分かる通り、あまり評判がよくない。それは、ジョジョのスピンオフノベライズを期待して読んでいるからそう感じているのだ。あの小説は決してスピンオフでもキャラクター解釈でも何でもない。物語と世界の構造を、ジョジョファンという物語世界フリークの前でむき出しにした、まさに世紀の大実験だったに間違いない!
わたしは舞城王太郎が好きだ。舞城王太郎の挑戦と、その意図を、私は愛し尊び、これら作品群を私のパラダイムを更新してやまない最高の文学だと信じる。
それが彼のビヨンドの意志なのかもしれない。