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巣矢倫理子のブログです

物語世界構造/舞城王太郎「JORGE JORSTAR」の証明

※2015/06/12にnoteに投稿した記事の移行版 内容改変なし

 物語は世界である。
わたしたちの生きている世界と同じように、人が生き、暮らし、空が変わり、雨も降るし気温も上がったりする、そういう世界である。もちろんそうでない世界もあるが、それだって多元的世界である。そのなかに、登場人物は存在している。
「物語」の人物が生きる世界を、物語世界と名付けよう。この物語世界は、作者が作り上げた世界である。作者は作り上げた物語世界に接続し、それを良く見て、必要な情報を抜き出して私たちに伝える。私たちはそれを読んで、物語世界に思いを馳せる。
ここで立ち止まる。物語には主人公が不可欠だ。しかし現実世界に主人公というものはいない。自分が世界の主人公だと思える人は少なくとも希である。物語世界は現実と同じく多元的で複雑な世界であるにも関わらず、作者の意志という存在が、何者かに主人公補正をかけて、ドラマに編み上げる。そしてその主人公の物語を伝えやすくするため、印象を操作するために、物語世界の中のものを舞台装置へ仕立てる。つまり、作中のオブジェクトには、現実に存在している場合以上の意味が与えられる。それは物語世界が文章や絵や映像といった伝達能力が限られた媒体によってのみ作られるからであり、巨大宇宙たる物語世界をその媒体に落としこむときは必ず情報の取捨選択がなされるからだ。限られた条件でできる限り物語の情報量を増やすならば、一つのオブジェクトに付けられた意味を増やしていくしかないのは当然の展開であろう。
物語世界の中にあるものたちは、現実に生きている顔をして、実は作者という創成の神と、その神から各々に与えられた「主人公のための意味」に、「見て見ぬふり」をしているのである。

前述したとおり、主人公を主人公にしているのはひとえに作者の意志だ。しかしそれに主人公は気づかない。「俺って主人公補正かかってる主人公なのか」と自認する主人公はいない。それが違和感のある行為であることは、「ギャグ漫画日和」に出てくるエピソード「平田の世界」がよく示しているだろう(参考:ピクシブ百科事典「平田の世界」)。キャラが自らを物語の中の人物だと認識することは、ある種のタブーとも言えるのだ。
舞城王太郎。偉大な作家、私が最も尊敬し愛読するところである彼は、「物語」の構造そのものを暴いてしまった。
まず、舞城王太郎に付き物である「見立て」は、ミステリー小説を意識しながら作中のモチーフをメタファーと見なして解釈し、事件の解決=作者の意志に自らを持っていこうとする行為であった。この時点で「物語を生きることを知っているキャラクター」という超越した関係がこっそり成立しているのである。
そして、舞城王太郎の名著「JORGE JORSTAR」を見てみよう。これは舞城王太郎が「ジョジョの奇妙な冒険」を題材に書いた長編小説だ。ジョジョといえば究極の主人公補正と読んでも良いかも知れない。それはジョースターという血族であり、主人公たちはみな「黄金の精神」と戦いの運命を受け継いだ選ばれた者だった。
舞城王太郎がそこで主人公に選んだのはジョージ・ジョースター、つまりジョナサンの息子で、本編では全く出てこないと言っても差し支えない人物だ。彼は間違いなく主人公の資格を宿しながら、主人公にはならなかった。
同作のなかで、トンペティ(一部に出てくる波紋使いの師匠)がジョージに、お前はいずれ死ぬと告げる。ジョージがえー…という反応をするところで、トンペティは「やっぱり死なないかもしれない、君次第だ」と教えた上でこう付け加えた。引用しよう。

「君には何か……この世の神とは違う、君のための個人的な神のようなものがついとるようだな」
懐かしい台詞だ。個人を恣意的に選ぶ神。

ビヨンド。

そしてその存在を、僕は《世界を超越した場所で僕を操るもの》、『ビヨンド(BEYOND)』と呼んでいる。と言っていたのは名前を思い出すのも久しぶりの九十九十九だ。
師トンペティは続ける。「君も話としては知ってはいるようだな。それを信じるかどうかだジョージ・ジョースター。それを信じるなら、君は死なない。それを信じきれないなら、君の宿命通りだ。君は恐ろしいものに残酷に殺される」

 

つまり、舞城王太郎は、作中でジョージが自分によって主人公にさせられていることを告知してしまったのである。
ジョージにビヨンドの存在を自覚させる「九十九十九」は、さらにジョージにこう告げる。

「やあ。君の道具だよ。君を必要としてる人がいる。僕が連れてくからね。」

"名探偵"を必要としている異世界へ飛ばされるジョージを誘う九十九十九は、自分が舞台装置であることを明確に意識している。そして九十九十九というキャラクターは、舞城王太郎の小説には頻繁に出てくるが、元は清涼院流水の小説JDCシリーズに出てくる名探偵だ。この作品で物語の枠を飛び越えて九十九十九が現れるのも、またジョージにとりつく「ビヨンド」の意志である。
舞城王太郎九十九十九」ではビヨンドがついていた九十九十九は、「JORGE JORSTAR」においては自らが装置であることを悟る。
ジョージはビヨンドに世界を救わせるために動く。さらに舞城王太郎の凄まじいところは、この作品の中にはビヨンドが付いている人間が一人ではない点だ。ジョナサンの息子であるジョージ・ジョースターに加え、繰り返した宇宙の平行世界に産まれた、英国人の養子である福井県ジョージ・ジョースターにもビヨンドはついている。そしてさらに、ディオにもビヨンドは寄り添っている。
これらのビヨンドの正体が誰なのかは分からない。しかし同じ物語世界のなかで別のビヨンドがそれぞれの主人公を選べばどうなってしまうのか?
戦争である。物語はスタンド使い同士の戦いから、「ビヨンド使い」の戦いへと進化をとげる。もはやビヨンド使いがビヨンド使いでなければ倒せないことに説明はいらないだろう。
「JORGE JORSTAR」には、ジョジョ=荒木飛呂彦世界、舞城王太郎世界、清涼院流水世界が混在している。それぞれがビヨンドである。そしてジョジョには世界の循環と平行世界がある。これらの要素をすべて飲み干した舞城王太郎は、ジョジョノベライズという格好の舞台の上で、みんなが見て見ぬふりをしていた「物語世界と物語そのもの」という仕組みをさらけ出してしまった。さらにその仕組みをキャラクターに告知し、本来作者のみが持っていて然るべきメタ的視点をキャラクターたちに与えてしまう。キャラクター本人が物語の合理性を考えて行動するようになってしまう。全ての枠、物語世界と世界そのものの接続を、舞城王太郎は全く自由に解放したのである。
舞城王太郎「JORGE JORSTAR」は、アマゾンレビューを見てもらえば分かる通り、あまり評判がよくない。それは、ジョジョのスピンオフノベライズを期待して読んでいるからそう感じているのだ。あの小説は決してスピンオフでもキャラクター解釈でも何でもない。物語と世界の構造を、ジョジョファンという物語世界フリークの前でむき出しにした、まさに世紀の大実験だったに間違いない!
わたしは舞城王太郎が好きだ。舞城王太郎の挑戦と、その意図を、私は愛し尊び、これら作品群を私のパラダイムを更新してやまない最高の文学だと信じる。
それが彼のビヨンドの意志なのかもしれない。