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巣矢倫理子のブログです

映画「屍者の帝国」感想

感想・レビュー

※2015/10/03にnoteに投稿した記事の移行版 改変なし

※この記事は映画および原作「屍者の帝国」ネタバレと、それに対する批判が多大に含まれますので、自己責任でご覧ください。

屍者の帝国」を鑑賞してきた。
鬱病患者のオナニーを局部が映らないアングルで2時間見せられている気分」。端的な感想はこれに尽きる。
つまり、「何が起きているのか分からないし、とにかく主人公が超個人的および独りよがりに勝手に苦しんでいて、キモい」ということである。
以下、「屍者の帝国」がいかに私の中で消化できなかったかを話そう。
①まず、死ぬほどに存在する突っ込みどころに一度目をつむって、この映画に真面目に向き合ったとしても、「意味がわからない」。
私は原作未読で鑑賞に臨み、鑑賞の翌朝に原作にざっと目を通した、という条件にあったことを前提として、以下の感想を読んでほしい。
 まず、ワトソンとフライデーが最後どうなったのか、それすら初見では理解できなかった。
映画ラストシーンの流れについて簡単に説明すると、
ロンドンでの騒ぎ(これも何が起きていたのか全く分からねえ)をクライマックスで鎮圧したのち、ワトソンの研究室で、屍者であるフライデーが生者であるワトソンへ擬似霊素を書き込んでいるような描写が流れ、エンドロールとなる。エンドロール終盤に、原作ラストのエピローグがフライデーによって朗読され、シャーロック・ホームズとロンドンを駆け回るワトソンや、アイリーン・アドラーになったハダリーが現れる。そして、どこにいるともわからないフライデーが、風に髪をなびかせて微笑み、終幕となる。
 本当に意味不明だった。
 この「生者へ擬似霊素を書き込んで屍者化する」行為は、物語中盤でアレクセイ・カラマーゾフが同郷の友人(正直ゲイカップルにしか見えなかった)ニコライに対して施した禁忌であり、生きていたニコライを屍者にしたのちアレクセイも自身へ霊素を書き込んで屍者となる……という形で現れたので、私は映画のシーンを見て「ああ、自分も屍者になることで、あの二人の末路を自分とフライデーに重ねて、落とし前をつけつつロマンティックに人生を終わらせようとしているのか」と解釈した。
ところがどっこい、エンドロールが終わると、元気にロンドンを駆けずり回るワトソンが出てくるではないか。は????さっきまでの感傷は一体……?
 同日に原作既読で鑑賞していた姉に聞くと、あれは手記を自分の体に書き込んで封印していたのでは? とのことで、それもまた解せない話だと思った。生者にもそんな攻殻で言う所の「電脳」みたいなシステムが使える世界だったの????聞いてないぞ〜????
 また、クライマックス場面に至るまでのラスボスの行動に、合理的な理由がなく、そこも理解できなかった。なぜMは人類を救うと銘打って屍者を暴走させたのだろうか? どういうシステムだ??
 さらにザ・ワンが花嫁を求める設定が唐突に明かされる。そこに説明は皆無なので、メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」の概要を知らない人には何も理解できないのではないだろうか。
 何をしているのかわからない。本当にわからない。
②BLというかJUNE
 とにかく原作にないオリジナル設定が、男性、というか少年同性愛過ぎて、どう受け取っていいのか分からなかった。
 映画の物語は、基本的に主人公ワトソンによる親友フライデーへの執着が軸になっている。とにかくワトソンが気持ち悪いほどフライデーを溺愛するが、生前のフライデーとワトソンの親密さや関係の深さ、思い出などは非常にわずかしか出てこないので、なおさらワトソンの愛が独りよがりに見える。
 映画での二人は、「屍者化された人間の魂のゆくえ」について議論していたが、フライデーが自身の死を悟り「自分の屍体を屍者化しろ」「魂を感じたらお前に合図を送る、こんなふうに」(ワトソンの唇をペンでつつく。一体何ックスのメタファーなんだ……?!)と告げ、ワトソンはそれを実行する……という流れだ。
 そして映画の中で彼が「喋る屍者」を生み出せるかもしれない技術が記されているという「ヴィクターの手記」を求めるのも、フライデーの言葉をもう一度聞きたい、という個人的な欲望からだったし、フライデーが記録をとる機能を持っているのも、「君の書く言葉が好きだった」というワトソンのナレーションで一気に合理的理由から性癖的な理由へ変貌してしまった。劇中、フライデーに触ろうとする人間にワトソンは過敏に反応するし、手の握り方もなんだかいやらしい……。
 本当にびっくりしたのは原作を読んだらフライデーはワトソンの友達でも何でもなくただの支給品の屍体でしかなかった点で、え???映画は一体なんなんだ????と心の底からはてなマークがドブドブ溢れ出してきた。前述したラストシーンのエピローグは原作通りに再生されるが、原作だと「ただの屍者だったフライデーにも意識のようなものが生まれた」という終わりとして解釈できるところが、この設定のせいで「フライデーの魂が戻ってきた感じだったんだけど、その後フライデーの屍体に新しい別人の魂が発生する」(?????????)という謎展開になっていた。もうわかんないよ…。
 
 本当に何がしたいのか分からないのだ。親密な関係を生前に築いていた描写が本当に少なく、フライデーがどんなキャラクターだったのか理解できないのに、ワトソンはひたすらフライデーを屍者にしてもなお大事に愛して彼の魂を求め続ける。これの気持ち悪さは、フライデーがワトソンより随分幼く、さらにセクシーに描かれていること、フライデー自身の人格やワトソンがなぜフライデーに偏執するのかについての説明がないこと、の2点によって、より強調されてしまっている。
 同じストーリーをやっていたとして、フライデーがワトソンと同じぐらいの年のほどに見える普通の人間で、生前彼らはこんな関係で、どういうエピソードがあって……という描写をもっと挿入していれば、ワトソンの行動に説得力が出たはずなのだ。
 ワトソンがなぜか幼く性的な美少年の屍体に執着する独りよがりな異常者になってしまったのは、オリジナル設定が浅く尺も何一つ事足りていなかったせいだと思う。
 これ以外にも、アレクセイが原作では「誰に向けるわけでもなく」つぶやく「間に合ってよかった」というセリフが明確にニコライに向けられていたり、アフガニスタンの超山岳地帯の山奥で出る食事が”BL朝食”(BL作品になぜか頻繁に出てくるオシャレ朝食のこと。カリカリに焼いたベーコン、スクランブルエッグなどなど)のようなキラキラサラダだったり(しかも回し食いする)、いやそのオリジナル設定どういうつもりで盛り込んでいるんでしょうか??といたたまれない気持ちになった。
 ちなみに原作ではもちろんアフガニスタンの山奥でサラダが出た描写はなく、パンとか豆とか現実的なものを食べている。男と男が仲良しならいいかってそういうことじゃねえんだよ〜〜!!!
Dグレだった
 本当にこう思った。D.gray-manだった。
 ゴシックな雰囲気、何が起きてるのか分からないけどとりあえずゴシックなマシーンやシックな敵、美少年、異常な愛、終わらない苦しみ、トラウマキャラクターども、美女機械人形などなど、とにかく「少女向け少年漫画」エッセンスが存分に詰め込まれている上、尺の都合か各々が薄っぺらい描写で終わってしまった結果、全部陳腐に見えた。Dグレ江戸編を5000000回ぐらい思い出した。
 ゴシックとかスチームパンクとかそういう雰囲気に説得力がなかったことと、キャラ同士のコミュニケーションが大変表層的に演技のように見えたことが、とにかくつらかった。
 ワトソンがバーナビーを仲間として受け入れたり、バーナビー自身がアレクセイとニコライの屍者化を見て「あいつらのために」という謎の義理を感じて冒険を続ける決意をすることが、事象の受容のスピードとして早すぎる。親密になるスピードがおかしいし、「あいつのためなら!」的な少年漫画の論理が作品の設定や雰囲気から浮いていて、納得できないことが多すぎるように思われた。
 
 以上の要素を総合して、私はこの映画を冒頭の通り評する。何が起きているかも人物の動機もわからないのに主人公超個人的かつ独りよがりな苦しみを見せられ続け、ただただキモかった。そしてこの感想は、私なりに物語と真正面から向き合って感じた「まじめな感想」であって、もっと沸点を下げれば「クソ」の二文字で済ませることも可能であると最後に付記しておきたいと思う。
 屍者の帝国、敢えておすすめするとしたら、服がはだけた美少年とか手を握り合う美少年とか美少年が極寒の中銃を撃つ映像とか、そういうのにフェチを持っている人は喜べるかもしれない。自慰のオカズとして。