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巣矢倫理子のブログです

アニメと愛とジェンダー

※2015年3月に投稿したnoteの記事(アニメと愛とジェンダー|正しい倫理子|note)をはてなブログの方に移植したものです。内容の改変はありません。

 

 アニメを見ているとき、私は肉体を捨てている。私が二次元に没頭しているとき、私はキャラクターの恋人でも通行人でもキャラに踏まれる土でもなく、まぎれもない神だ。イメージとしては『モーレツア太郎』のア太郎の死んだ父がア太郎を見ているとき。空から日常を俯瞰するなにかになって、わたしは二次元に夢中になる。
肉体が邪魔なんじゃないかと思い始めたのは、『攻殻機動隊』シリーズがきっかけだった。わたしはあのアニメの主人公である草薙素子が大好きだ。全身サイボーグである彼女は、男の体も女の体も乗りこなす。彼女の精神は肉体に縛られずにどこまでも自由で、変化することを恐れない。すごい世界だと思った。現実世界で女の子としてしか扱われない自分が悔しかったのかもしれない。

大学に入ってから飲み会というイベントが発生した。飲み会ではわたしは「一女」として扱われる。好きな異性のタイプを尋ねられる。相手が私に興味なんてないのはあからさまなのに、わたしが一年生の女だからそれを聞かれる。辛かった。屈辱じみていた。こんな薄っぺらいやりとりをして、酒を飲む人間たちの真っ只中で、素面で笑っていないといけない自分が悲しかった。飲み会だけではないが、私自身と関係なく「一女」であるからという理由でまるで私が魅力ある人間のように扱われるのがみじめだったのだ。ほかの一年生の女の子たちとまとめられて、無個性なくせに一様にちやほやされるべき存在として流れていくのは、気持ち悪かった。
彼氏ができた友達は、二人のツーショットをとる。微笑んで寄り添う男女が完成形として憧れの的になる。訳もなく寂しかった。欲しくもないものを取り残されないために得ようとするのも嫌だった。
ひがみだと言われたらそれまでかもしれないが、これは私が実際に感じたことだ。女の子の型にはまるのが辛くなってきてしまったのである。肉体も性別も邪魔だ。

ユリ熊嵐』を見ていたとき、同じ部屋にいた母が「ヘテロセクシャルすら捨てたのか」とつぶやいた。なんだか腹が立った。捨てるってなに?ヘテロセクシャルはデフォルト装備でもなんでもない。誰がどんな相手を好きになろうとそれは自由で、ヘテロを捨てて到達する地点でもなんでもなく、それは好きだから好きというシンプルな愛のはずだ。決して意識の低くない母が言ったその言葉に、なおさら辛くなった。
ユリ熊嵐』はありとあらゆる愛の形を肯定するアニメだった。ただ相手が好きなら、性別も出自も住む世界も関係ない。分かり合えなくても、相手がいなくなってしまっても、幸せじゃなくても、捧げるためだけの愛でも、愛し合うことはできる。それでいい。そこではなにも関係がない。世界を支配する透明な空気から外れて、主人公はほんとうの愛を見つけるのだ。
作中では愛し合う関係を恋人ではなく友達と呼ぶ。これも、愛し合う関係が決してセックスする関係とイコールでないことを示唆しているのだろう。どんな距離感でも愛し合うことは可能だ。

『プリパラ』ではカワイイ以外の符号は全て二次的なものだ。自らを「ボク」と称する少女ドロシーもさることながら、彼女の双子の兄弟であり、少女の電脳世界であるプリパラに出入りすることを許された女装する少年レオナがそれを証明する。レオナが男であることに周囲は確かに驚くが、プリチケがあれば何も問題はないと言って誰も気に止めない。レオナの「カワイイ」を目の当たりにした男子生徒は「プリパラの神も許す」とつぶやく。プリパラの神はレオナを許した。プリパラの神とはプリパラに横たわる共同幻想であり、そこにあるのはたったひとつ「カワイイ」のルールだ。性別も現実の肉体も、プリパラでは何も意味を持たない。プリパラは全てを許し、受容する。

考えすぎかもしれない。アニメにそんな意味はないとか、あれはただカワイイ女の子を眺めるためだけのコンテンツだと解釈する人もいるのかもしれない。じゃあなぜ私はこう感じたのか?私がこう感じざるを得ないのは世の中がおかしいからじゃないのか?そうも思うのである。
結局のところ、私には現実の苦しみはいつも肉体のせいである気がしてならない。そういう邪魔なものを捨ててわたしは二次元に逃げている。いつか全部私と関係なくなればいい。