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SEPPUKU Web

巣矢倫理子のブログです

「完璧な白い球体」の身体論

雑記

※2015/05/22にnoteに投稿した記事の移行版 内容改変なし

 私たちの肉体は情報に満ちている。若い、きれい、肌の色、身長、社会的身分、性別。それらの要素によって私たちは相手への接し方を変える。相手の属性を規定し、その中で最も一般的であろうステータスを想定して語りかける。
どういうことかと言うと、例えば大学に通っていそうな十代の女の子に見える相手と話すとき、私は相手に「学校はどこ?」「その服すごくかわいいね。どこで買ったの」「バイトはしてる?」といった話題を選ぶだろう。十代の女の大学生という私と同じ属性を持つ者にたいして遠慮すると、楽しい会話は望めないと思うからだ。
逆に相手が四十代の社会人の男性に見えたとしたら、私は自分から質問せずに相手の質問を待つに違いない。相手の見た目で勝手に怖じ気づいてしまうのと同時に、相手と自分が会話するなら相手がイニシアチブを取るべきだろうと無意識に選択するからだ。
こういう風に、私たちは無意識に自らを社会のなかに位置付けて考えながら会話する。そして同時に、相手を勝手に社会のなかに位置付けて捉え、レッテルを張り、相手に文脈を見いだす。
考えてみよう。
殆どの「若い女」は、「どんな男性がタイプなの、彼氏はいないの」と聞かれた経験があるはずだ。それは「若い女」が「男性」を好み、彼氏を作るという「若い女の平均像」が質問者の念頭にあるからだ。相手を勝手に社会のなかに位置付けて捉えるとはそういうことである。
これと平行して、もしこの質問者が「若い男性」だった場合、質問された「若い女」は「この人は私のことが気になっているのかもしれない」と感じる可能性がある。これは「若い男」であれば「若い女」を好み、また気になる相手が出来たときには彼氏の有無やタイプが気になるのが普通、という回答者側のレッテル張りだ。
これら「相手を勝手に規定する」行為の根拠になる情報は、全て肉体による。もちろん前もってある程度相手のプロフィールを知っているならある程度その割合は減るのだが、初対面など、相手の情報が少なければ少ないほど私たちは相手の肉体から受け取った視覚情報に頼ることになる。
社会の中に「この年代で、この性別で、この属性の人なら、これが普通」という「共同幻想」と呼ぶべきステレオタイプイメージが、ある程度共有されているからこそ、こういうことがあるのだ。そのイメージは、ある程度正しく、そしてある程度間違っている。
人間は自由であるべきだ。セクシュアリティエスニシティといった、「越えられない」と思われがちなものこそ私たちの自由を妨げている。「変えられない」要素が「決定的な差異」だと思っているなら、それは違うと思う。全ての人間は顔も趣味も違うということに同意できるならば、セクシュアリティエスニシティも全て人それぞれに違いない。母が「中国人」で父が「日本人」であることと、母が鹿児島県出身で父が青森県出身であることでは何が違うんだ?男体持ちの人が好きであることとメガネをかけた人が好きであることでは何が違うのか?
本当は小さいことであるはずの「差異」が、肉体のせいで決定的な差異と捉えられがちになっている。
「完璧な白い球体」になりたい、とは、私にとってそういうことだった。肉体がなければ、何にも邪魔されずに対象とコミュニケーションを取り、祝福することができるのではないか。
肉体の情報量は非常に多い。相手を規定し、相手に規定される自分を想定して生きる社会から逃げ出すには、床を転がってどこかへ消えていく真っ白い"◯"になるしか、ないのかもしれない。