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SEPPUKU Web

巣矢倫理子のブログです

自分を巡るカルチャーと身体 第一回[正しい倫理子→千晶1]

身体とはなんだろう?

棄てられないもの、好きだけど憎いもの、私を私たらしめているもの……身体について悩めば悩むほど、私は身体から逃げられないことを実感する。
身体の形は一人一人異なっていて、それを自分のなかでどう解釈しているかも一人一人違う。仕草、美醜、大きさや輪郭、はたまたセクシュアリティやあり方そのものまで、実態とイメージがそれぞれ存在しているわけである。
身体とは、悩みの発生源でもあり、同時に究極に興味をそそられる世界の秘密にも見えた。身体を考えることは、私のなかで今一番大きな課題だ。
 
 
で、唐突なんだけど、往復書簡を始めようと思う。
テーマは「カルチャーと身体」。
二人で語り合う形式をとり、文章でも絵でもプレイリストでもブックマークでもいいので、何かweb上で「カルチャーと身体」をモチーフにしたレスポンスを送り合う。
内容は、学術的なことやデータよりも、自分個人の生活の実感から得たことを中心に据えたい。だからこそ、「『自分を巡る』カルチャーと身体」というタイトルにしてある。主語が狭いぶん、なんとなく思ったことをおしゃべり感覚で自由に述べられたらいい、と思っている。
 
今回そのお相手をしてくれることになったのは、ツイッターで知り合った同い年の劇作家・千晶ちゃん。もともと友人を経由してフォローしたのだが、考えているジャンルが自分に近かったことと、身体について考える以上演劇の人と話してみたい、という動機があり、先日初めて連絡を取って会うことができた。
千晶ちゃんは本当に頭がいい人で、私のような抜けた人間にもわかりやすい順番で考えを丁寧に話してくれたし、その内容は録音しておけばよかったと思うほど新鮮で面白かった。そういう会合があったので、身体について複数人で考える試みをやってみたいと思いついた時、まっさきに千晶ちゃんとやりたいと思ったのである。今回それが実現して本当にラッキーだった。
 
前置きはこのぐらいにして、第一回目の手紙を私から送ろうと思う。返事は千晶ちゃんがきまぐれに返してくれるだろう。いつまでやるのかも分からないし、落としどころも考えていないが、とりあえず書き出していく。興味を持ってくださった方がいれば、読んでもらえると嬉しい。
 
 

第一回:正しい倫理子から千晶へ

 
千晶ちゃんへ
 
こんにちは。今回は、私の身勝手な企画に参加してくれてありがとう。ツイッターで私が放った無責任な発言に、速攻で「誘って!」とリプライをくれたのが嬉しかった。
この間あった時は、実はちょっと人間関係で若干のヘマをやらかした直後だったんだけど、千晶ちゃんと話して得た知見で自分について少し客観視することができたので、こっそり感謝をしています。
まあそんな話は置いておいて、本題に入ろう。
 
  

この間、鷲田清一の「ちぐはぐな身体」という本を買った。

鷲田清一によると、人間は自分なのか自分でないのか分からないものに恐怖を感じるらしい。だから抜けた髪の毛とか排泄物を汚いと感じる、という話の流れで出てきた。

始めにこの言説を読んだときはフーン……という感じだったんだけど、最近は納得している。というのも、自分のコミュニケーションに大いに問題があるということに気づいたからだ。

私は無意識に相手に感情移入する。相手の気持ちを考えるとき、「相手だったらどう感じるだろうか」という方向ではなく、「自分が相手の立場だったらこう思うだろう」という方向で物事を捉えてしまうのである。

大きな問題は、後者の考え方をしながら、自分では前者の考え方をしていると思ってきたことで、そのせいで色々失敗をしている、ということにも気づいたのはごく最近だった。さすがに反省をした。

私は関わる他人を全部自分だと思ってきたのかもしれない。会う人が自分とは違う考え方をしていることを、知らず知らずのうちに無視していた。

「人間は自分なのか自分でないのか分からないものに恐怖を感じる」。「自分なのか自分でないのか分からないもの」は、私にとっては「他人」そのものだったのだろう。他人は、マジで怖い。

 

 まあこう書いているのも全部終わったことだ。後からわかったところでやってしまったことは取り返しがつかないし、逆に今気付けたんだから儲けものだと思う。これからはちゃんと他の人の立場や考え方を思いやりましょう、以外の結論はない。頑張るぞ。



で、思ったのだが、「演じる」って、いわば他人になることで、「他人になっている自分」は、演じている人間からしたら「何」になるんだろう。やっぱり「自分なのか自分でないのか分からないもの」なのかもしれない。

去年、国立新美術館の「隣の部屋」という企画展を見た。韓国と日本の現代美術家が、それぞれに作品を展示し合うという面白い展示で(結局面白すぎて2回見に行った)、その中に興味深い作品があった。

外国人の役者が、架空の俳優として、自身が体験した(という設定)の幽霊話を語るというものだ。もちろん全部演技。会場にはモニターが5つ展示されていて、常にモニター1つが1人分の映像を流し、終わったら隣のモニターの映像が流れ始める。

肩を叩かれて振り向いたのだがそこには誰もいない……といった、幽霊話としては平凡な部類のやつを、さも自分の身に起きたことのように砕けた言葉で話す俳優たち。結局、今流れている映像に映っているのは「誰」で、この話は「何」なのか?という、実に不思議な展示だった。

今ここにいる人が「誰」か?って、冒頭で身体について言ったように、「イメージ」と「実態」の問題がついてまわる。自分で思っている「自分」と、他人から見た「自分」には齟齬があるわけで、もうその時点で「自分」というものは多重だ。

「本当の自分」なんてものがあるとは、私にはいまいち思えない。人間は、場や相手に合わせて身体も態度も絶えず演技させているから。それでも、こういう多重に「自分」をぼやかしている作品を見ると、なんだかこう、やっぱ人間に変化しない「核」みたいなものがあってくれないかな、と考えたりもする。演劇の世界だとそういうのってやっぱり話題に上ったりするのかな。

 

 

第一回から、よく分からん文章を書いてしまった。初回はこの辺までで止めておくことにするね。ここが意味不明だ、というのがあれば、遠慮なく言ってください。あと、何度も言うけど、返信は完全にレスポンスになっている必要性は全然ないし、ただ話したいことを返してくれたらいいので、よろしく。

ではまた。

正しい倫理子より。

※返事が来たら随時リンクを追記します。