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SEPPUKU Web

巣矢倫理子のブログです

21歳の春

21歳、春のくすぶり。やべえやべえ。焦り以外に何もないぐらい焦っているけど明確にやるべきことは何も見つからず、ただ目の前に大量に流れてくる弾幕をアウアウ言いながら追っている感覚がある。ストリームはキャリタスとかマイナビとかそういう場所からくる。就活だ。

私は就活しない。それも「もっと勉強したい」というごく真面目な理由で進学を選んだ。最近気づいたのだが私は真面目なのだ(性根が曲がっていることと真面目であることは意外に矛盾しない)。そして真面目であるがゆえに私は今世間の大学3年生が大いに立ち向かっている最中であろう「就活」という強風も、傍流において「真に受けた」。これに抗うことは気持ちの上で難しく行動の上で簡単である。絶対受けないのにちょっと興味のある企業の新卒募集要項のページをクリックしてみたりする。「ここから先はマイナビ2018のサイトになります」とか言ってログインを迫られ、IDがないのですごすごブラウザを閉じたりもする。もちろんこの行動全てに生産性はない。ただ忙しく動き回る友達を見て、あの子は自分の将来について考えているのだ、という事実に打ちのめされただけだ。

 

いやそもそもなぜ打ちのめされているのか? 就活していても将来やりたいことについて現在進行形で悩んでいる人はたくさんいる、というかむしろ就活によって悩んでいる人の方が多いし、私だって積極的な意味で進学を志望しているわけで、別に「決まって一抜け」した子たちを将来白紙のまま見ているわけではないのに。

漠然としたショックの理由はだんだん分かってきた。「未来に向かって歩いていく」というJPOP的に前向きな行動をマジで取っている人たちを何度も視界に入れていると、その光のまぶしさに気づくのだ。未来を見ている人は明るい。何人かに話を聞いたが、夢がないとか言っている子たちもなんだかんだ方針は決まっていて取るべき舵を取っている感じがした。あの子は食品メーカー、あの子は映像製作。「光の射す方へ」というのはこういうことか。自分で自分の行く末を選ぶ人は無条件でカッコイイ。

 

中世の人間は「未来に向かってバックする」。どういうことかというと、「さき」と「あと」の感覚が、今の人間と中世の人間ではほぼ逆なのだ。中世で「さき」というと「さきの戦争」のときの「さき」で、「あと」というのは「あとは野となれ山となれ」の「あと」である。つまり「さき」とは我々が想像する未来という意味での「さき」ではなく過去のことになるし、「あと」は過去ではなく未来を指しているのだ。身体的な単位で言うなら、現代人が未来を見ながら進んで行くとしたら、中世人は過去を見ながら未来に向かって後ずさりしていく、ということになる。この人間の認識の時代的差異は、日本列島に限らずヨーロッパでも見られるものだった、と勝俣鎮夫は論文「バック トゥ ザ フューチャー」で述べている。

 

やりたいことは何かとか、どういう自分になりたいかとか、そういうことについて考えるのは比較的新しい行為である。生きるか死ぬかの今をサバイブしていたウン百年前の人間にそんな余裕はほとんどなかっただろう。今が担保された結果、私は未来を見る余裕を持った。逆に言うと何もない白紙を見るしかなくなった。仮に自力で望み通りにどうこうできるほど選択肢がなかったとしても、「自分が選んだ」ものを受け取って生きていくしかない。20歳を超えて気づいたのは、自分が自分の人生の当事者であり責任者であるということだった。私の選択は私の生に直接跳ね返ってきた。

そうなるとたちまち不安になる。これでいいのか? やりたいようにやって、それでどうにかなるのか? やりたい道を選んで、それが終わったら何をするのか? やりたいことと出来ることは違うわけで……いや出来ることって何????

 

結論は何も出ていない。この文章を書いているのも何もせずにボケッと寝ているよりは何かしらアウトプットした方が有意義だろうという考えからである。ただこうやって無為な時間に「21歳春のくすぶり!!」などとエモーショナルなタイトルをつけて何か価値があるかのように見せかけているのもそれはそれでクソな行為であることは間違いない。悩みながら時間を棒に振ることは確かに大学三年の春にしかできないことだが、今しかできないことが常に至上の価値をもつわけでは勿論ないのだ。ヴッ! 自分で自分に説教を重ねながらつらい季節が過ぎる。もう3月が終わりそうだ。4月はきっとうまくやる、やってみせるぞ、と唱えても、「うまくやる」というのが具体的に何なのかは全然分からない。私は雰囲気で人生をやっている。