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巣矢倫理子のブログです

「ひるね姫」の面白さを言語化するメモ:社会と居場所の2017年

※ネタバレ満載です!!!!既に鑑賞した人向けなのでご了承ください!!!!!

 

 

 

 

 

 

ひるね姫は「社会」と「居場所」の物語だった。

神山監督が作ったオリジナルアニメーションに「東のエデン」(2009)という作品がある。3月29日に発売されたムック本「神山健治Walker」の帯で今作に関してはっきりと「次世代のテクノロジーを使って『東のエデン』の延長線上にある世代間の物語を描きたい」と書かれているように、東のエデンひるね姫は切っても切り離せない関係にあるのだ。

東のエデン」の舞台は2011年。不景気と閉塞感が充満した日本で、記憶喪失の主人公・滝沢が、ニートの若者らとともに「100億円でこの国を変える」知能戦・セレソンゲームに巻き込まれながら「この国の空気」に戦いを挑む、というサスペンスである。

リーマンショックで景気は最悪、回復の兆しはなく、将来どうなるか分からず、「空気を読む」ことを求められ続ける……そんな2009年の情景を、「東のエデン」はみごとに切り取った上で、「2年後」のわずか先の社会を予想した。実際の2011年を経験している我々からすれば、もう東のエデンで描かれた未来予想図の間違いはいくらでも目につく。でも、2009年当時の「2011年のリアリティ」は、東のエデンだったのだ。

 

ひるね姫」の舞台は2020年の夏、東京オリンピック開催直前である。東京オリンピックは、2017年の我々にとって不思議な指標だ。私も就活時期について「2020年までは景気が持つだろう」と言われたことがあるが、「じゃあその後は?」と問えば、いつも「どうなるか分からない」と濁された。今リアリティを持って想像できる一番遠い未来が、2020年の夏なのではないか。神山監督の想像は、きっと3年後には齟齬が見つかるだろう。しかしそれはエデン同様、大した問題ではない。「2017年に想像する一番遠い未来としての2020年」は、如実に今の社会の空気を映しているのである。

2009年が「社会に居場所のない若者が社会を変えようとする」東のエデンだったとすれば、2017年は「ある家族が自分の居場所を守ろうとする」ひるね姫だった。それは社会の変化でもあったし、神山監督自身の変化でもあった。

 

ココネの行動は、ただ「父を助ける」というシンプルな気持ちで起こされている。それは父親がココネの居場所の一部だったからだ。大事な居場所を脅かされたココネは、自分の力で反撃に出る。元はと言えば、ココネの母・イクミも、完全自動操縦技術の開発を進言して社長(イクミの父でもある森川一心だ)に却下され、会社に失望した結果、会社役員という居心地の悪い場所を捨て、モモタローとともに新しい居場所を作った。ラストシーン、家に戻るように設定したはずの自動操縦車「ハーツ」がココネとモモタローのもとに走ってきたのは、「モモタローとココネがいる場所」こそが、イクミのメタファーであるハーツにとっての「家」だったからではないだろうか。場所は、緯度と経度だけで決まるものではなく、人の存在やその記憶によっても構成されている。リラックスして「ひるね」できるのは、大事な人の記憶にあたためられた「家」の中なのだ。

 

森川家と和解した一心はモモタローに(明言されていないが)本社勤務に復帰する道を、ココネに進学のために東京で勉強する道を打診する。モモタローは倉敷での暮らしを続けたいと意思表示する一方、ココネは東京と倉敷を行ったり来たりすることを選んだ。もともと金銭面の問題で東京に進学できなくなる可能性を生々しく感じてきたココネが、一目散に東京で暮らすことを選択せず、「東京にちょくちょく行く」という半々の生活をとったのは、やはりココネにとって父のいる倉敷の家が大切な居場所だからだろう。脅かされた居場所を回復したココネは、さらに自分の力で新しい居場所を構築した。大事なものを素直に大事にしながら行動力で望みを勝ち取っていくココネの生命力は、どこまでも眩しい。

 

同時に物語のポイントとなるのは、「主観の肯定」なのではないか。物語のカギとなる「夢」は、そもそも徹底的な主観の世界である。ココネの夢は、機械の王国「ハートランド」を舞台にした続き物のストーリーとして展開され、さらに現実ともリンクする不思議な世界だ。この夢はココネが幼少期に父親から聞かされていたおとぎ話なのだが、実はココネの母・イクミを主人公にした森川家のファミリーヒストリーの比喩だった。

 

夢は次第に拡張されていき、夢の世界に設定がない人物を現実世界の姿で巻き込みながら現実と混ざり始める。

夢の前半では、ココネの視点はハートランドの姫・エンシェンに置かれている。しかしエンシェンがココネのことではなく母・イクミのことだと気づいて以降は、ココネはエンシェンでなくなり、現実世界の高校生姿に変わるのだ。そして最後、志島自動車へ直談判に向かうシーンでは、ココネ自身は高校生姿の一方、「モモタローのおとぎ話」の設定のまま比喩で現実が進んで行く。この場面を指して「何が起きているのかわからなかった」と評する感想を数多く見たが、それは仕方ないのだ。なぜならこれはココネの主観であり、ココネ自身も何が起きているか把握していないからである。

ココネの主観である現実と夢が激しく交錯するのは、ココネにとって目の前の事実と夢との区別がついていないためだろう。でもココネはそういう子なのだ。

冒頭モリオの同級生に東京への進学について「お前じゃ何年かかったって行けないところじゃ」と揶揄されるシーンがある。このセリフは元ヤンの父と二人暮らしのココネを、貧乏で頭の悪い変な家の子として馬鹿にしているのだが、ココネは「そんなに遠いところなん?」と返事する。彼女は他人の悪意に気づかない子だが、それはココネの欠点であり武器でもある。余計なものに削られる前に自分の目的を見ることができる、ココネの強みなのだ。終盤、渡辺が自社の炎上を画策するシーンで舞い散るコウモリは<青い鳥>が姿を変えた「インターネット上の悪意」の象徴だろうが、彼女はコウモリにやられたりはしない。

 

「娘に見せたいアニメを作ってはどうか」

神山監督は日テレ側からそう提案されてこの作品を発案したという。でもこれはそのままの意味ではもちろんなく(参考記事 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20170325/E1490373683586.html)、今の社会に漠然と蔓延する不安感を、「ものを作る」ことのポジティブさとココネの生命力で拭おうとした、「明るい落としどころ」のことなのではないか。自分は誰なのか? この先どうするのか? 「分からない」という恐怖を、主観の肯定と地道なクリエイトが払拭してみせる。逆に言うと、今信じられるのはそれだけだ、ということかもしれない。ただ、自分にとって自分が信頼できる存在なら、それは確かな生き抜く力なのだ。それが神山監督が2017年に迎えた、あたたかい新境地だったのだと思う。