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巣矢倫理子のブログです

怒りは悪なのか、それは個人的な問題なのか

「不快にさせたことをおわびする」

「誤解を招く発言があったことをおわびする」

 

これらは何かと良く聞くフレーズで、「不適切」な言動があったときに批判された人が口にしがちである。謝罪の形を取ってはいるが内実としては全く謝罪になっていない。

なぜならどちらも「相手の感性のせいにしている」から。裏を返せば、「あなたが不快になっていなければ不適切ではなかった」「あなたがわたしの意図を汲んでくれていれば不適切ではなかった」と言っていることになる。不適切であるかないかの判断基準がまるで相手個人にあるかのような言い方だ。それは問題の矮小化である。不適切というのは、「あなたにとっての不適切」ではなく「社会にとっての不適切」なのだ。

例えば、今回話題になったバニラエアの事件では、副社長がテレビに出て「不快な気持ちにさせてしまい申し訳ない」と述べていた。タラップを自力で上り下りさせられた方が感じたであろう憤慨や不快感を労ってしかるべきだが、その憤慨や不快感は間違いなく「歩ける者だけを対象にしたシステムによって自らが"弾かれた"」という事実が原因だし、それは社会全体の問題に他ならない。すなわち、「健常者はスムーズに利用できるが身障者は健常者に比べてはるかに大きな負担を負わなければ利用できない、あるいはまったく利用できない」システムが当たり前のように稼働できてしまっていることに対する問題だ。バニラエアは交通に関する企業として必須であるはずの多様な人々を受け入れる努力を怠り、歩ける者だけを相手にしたサービス提供という社会的に許されないものを展開したことに対して責任を取らねばならない。

この事件はタラップを自力で上り下りした人の個人的な問題ではない。この人物をクレーマーだと言って叩いている人たちは自分も社会の構成員として責任があることを思い出すべきだと思う。

 

最近「怒りは悪なのか?」ということを、ずっと考えている。

anond.hatelabo.jp

これは今井絵理子が「批判なき政治をめざす」と発言して問題になった時に出たブログだ。ここでの話題は「批判」という言葉の誤用が広まっていることであるが、同時に「和を乱すこと自体が悪」という発想の存在も指摘していて、読みながら色々考えていた。

学科の教授が「最近の学生には良くも悪くも怒りがない」と話していたのを思い出す。私自身も、怒りを避けようとする社会の風潮は実際に存在すると思う。確かに怒りは、難しい。現状に不満があるから怒りがあるわけで、その場をかき回す感情であることは間違いない。

だが、世の中には乱してはいけない和しかないのか? 絶対にそんなことはない。むしろ乱して「現状には問題がある」ということを多くの人に理解させねばならない「和」もたくさんある。それは誰かにとっての「和」であるというだけで、別の誰かにとってはまったく「和」ではないからだ。マジョリティーにとって最適化されたものが不便であるとき、声をあげても取り上げてもらえない場合は極めて多い。ならばもっと強く怒りの声を上げるしかないだろう。黙っていては「同意」と受け取られかねない。たとえ現状が好転しなくても、これは共生にふさわしくない、と抗議すること自体には多大な意味がある。*1

すべての人にとって最良の状態、と言える状態は存在しない。だからこそ、負担は分け合い、より平等にお互いを尊重しあえる社会を目指さねばならない。「目指す」ことが大事なのだ。現状の社会的な非対称性を埋めねばならない、それはマジョリティーが無視していい"溝"ではない。

 

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

 

 「ソーシャル・サファリング」という考え方がある。他者が社会によって苦しめられる時、その責任は社会の構成員にも存在する、という発想である。私はこの思想に全面的に同意する。

人文学は他者の人生について想像する学問だ。自分が体験したことのない他人の人生について常に考え、怒らねばならないと思ったら怒る。何度も間違え、人を傷つけた経験があるぶん、そういう人間でありたいと思う。

*1:「抗議」は日本国語大辞典によると「反対の意見や苦情を、相手に対し主張すること。異議を唱えること。」であり、ここでは社会に対する怒りを正式に表明する行動が抗議に該当すると考えている。なお、批判は同じく日国によれば「批評して判断すること。物事を判定・評価すること。」である。