『僕のヒーローアカデミア』を読む:子どもたち秩序と混沌に立つ

本稿の内容

・「ヒロアカ」社会状況の整理と問題

オールマイト以後の時代はどうなるのか

・緑谷〜爆豪ラインの整理

 

 

(1)オールマイトという秩序

 超人社会黎明期という一つの混沌をより分けて、「ヒーロー」と「ヴィラン」という二つの立場が作り出された。これまでの「人間」像を破壊するような人間が秩序の内側を闊歩する混乱の中、前者は「能力を用いて市民を助ける正義の人」、後者は「能力を用いて市民に害をなす悪の人」ととらえられている。しかし、「助ける」とは何か? 「害をなす」とは何か? これらは単発の行動に対する一つの評価であって、個人単位の評価では微妙な場合、誰を対象と見るかによって意味が変わる場合など、曖昧で多元的な基準である。ではどのように分けたのか。スピンオフ作品『ヴィジランテ』を参照すると、自警団(ヴィジランテ)の中から世間の支持を得た者が世論によって「ヒーロー」として政府に公認され、それ以外の場合で勝手に個性を行使する者が「ヴィラン」になる、という流れを辿っていたことがわかる。肝は「人気」だ。社会において看過されないレベルで己の「個性」=暴力を使うという意味ではヒーローもヴィランも同じだが、「この人なら人を傷つける意図ではなく、人を助けるためだけに能力を使ってくれるだろう」という「市民の信頼」によって暴力は正当性を帯びたのだった。この「人気」だの「市民の信頼」だのの、なんと曖昧なことか! 
 つまり原初人をヒーローたらしめたのは「人を助けよう」という一方的な意思ではなく、「あなたを助けたい」「私はあなたに助けてほしい」という、「救済」行為に対する双方向からの同意の成立だったのである。これを「救済契約」とでも呼んでみよう。救われる側が手を伸ばし、救う側も手を伸ばして初めて握手に至るのと同じである(作中の「手を握る」行為は頻繁に救済契約成立のシンボルとして読み取れる)。

ヒーローになりたいなら手を差し伸べるだけではダメだ。相手からも信頼して受け入れてもらえないなら、救済は成立しない。そのために、ヒーローは「己が何者であるか」を社会に開示し、自分がヒーローであることを担保せねばならない。本来身体能力でしかない「個性」を、「あなたがたを助けるためだけに使う力です」と意味付けする。ヒーローネームもスーツも、「ヒーローであること」を己に固定するための道具だ。ヒーローたちは王のように身体をもうひとつ用意し、「ヒーローの身体」を後天的に身にまとう。

 これを「ナチュラルボーンヒーロー」として一つ上の次元でやりとげた男がいた。オールマイトである。

 


 オールマイトの魅力はいくらでも挙げられる――「私が来た!」という決めぜりふ、景気のよいルックス、決して消えないほほえみ、そして圧倒的な力。彼は「平和の象徴」になると誓って鍛錬を積み、それを達成した。オールマイトは無二の思想だ。彼は社会の精神的秩序になったのだ。

 作中、「オールマイト以前はよかったぜ」と嘆くチンピラが登場する。いわく、オールマイトが現れる前は「衝動が国に充満していた」そうだ。衝動とは無秩序なパワーである。やりたいことがたくさんある、ルールも突き破って何もかも思い通りにしたくなる、エネルギッシュなうずきである。しかし、オールマイトが現れてから法を犯す人間は確実に減った。オールマイトが超人社会の「中心」に立ったことで、社会の混乱は彼を中心とする同心円に均されたのである。カオスが秩序に編成され、みながそこに「おさまった」。そこをはみ出てまで何かをしようと思わなくなった。彼が正しい。彼の正しさの中にいればいい。皆そう感じている。犯罪の減少自体は喜ばしいことだ。しかし考えてみてほしい、たった一人の人間の思想が社会の秩序を作るのは、果たして健全なのか? いくら平和でもそうは言えない。価値基準が一つに集約されてしまうからである。「良くも悪くも、今は抑圧の時代だ」とグラントリノは話す。同心円は中心を作ると同時に周縁を発生させる。オールマイトによって生きやすくなった人がいる反面、周縁化されて秩序の縛りがよけいに苦しくなった人もいた。「オールマイト以前はよかったぜ」と言う人だって、アウトローだが人間だ。ヴィラン連合のトゥワイスも、「やつらが救うのは善良な人間だけで、いかれちまった人間は救われない」と語った。オールマイトの手からこぼれた人たちは、今の社会に居場所がない。オールマイトの理念に適合できなかった「いかれちまった人間」たちはどこへ行けばいいのか? 「善良」も「いかれちまった」も恣意的に割り振られる適切と不適切、何もかも政治的ではないか! 誰が守られ、誰が守られないのか? 誰が守っていて、誰が壊しているのか? そもそもヒーローとは何か? 超人社会は無数の問題を抱えている。

 

(2)オールマイト以後

 オールマイトが考えた象徴論は確かに莫大な効果を生んだが、結局象徴の再生産以外に続ける方法がない。オールマイトは本来苦しむ人に心を寄せて寄せて寄せて寄せて、どうにかできうる限り広範囲に「手を伸ばす」ために「象徴」になったのだろう。当時は一心不乱に、無我夢中の狂気で象徴を目指したに違いない。しかし今や彼の立場はオールマイトという一人の人間が責任を取れる範疇を超えて大きくなってしまった。社会はオールマイト一人に暴力を担わせすぎたのだ。

 無二の思想にして精神的秩序、オールマイトは神野事件によって引退した。精神的な支柱、同心円を組織していた中央が抜け、社会には穴が空いた。彼が負っていた暴力は、行き場をなくして社会に蔓延する。No.2のエンデヴァーが繰り上げでNo.1になったものの、支持層は20〜40代に偏っていて、全員から「信頼」を寄せられているわけではないらしい。トゥワイスいわく彼は「ヒーロー弱体化の象徴」だ。エンデヴァーでは「足りない」のに彼しかいないと人々は知っている。オールマイト引退後、犯罪発生率は確実に上昇し始め、徒党を組んで計画的な悪事に励む連中が増えてきた。秩序が崩れて「オールマイト以前」の衝動が少しずつ蘇る。まだ「衝動」の段階だが、同心円が崩壊したおかげで「飛び出す」人間が連帯し始めた。嫌な想像が簡単にできる、この先、ヴィラン側からオールマイトのような思想が出てきたら社会はどうなってしまうだろう? 先ほど述べたように、超人社会は矛盾だらけだ。いくらでも人がなびく余地がある。

 死柄木弔について考える。彼は「オールマイトの「手」からこぼれた子供」であった。オールマイトの師匠の孫だが、親に捨てられ、唯一彼に手を伸ばしてくれたのが「オール・フォー・ワン」、裏社会の「秩序」である。オール・フォー・ワンは教育を心得ているから、死柄木を育てはしても思想を植え付けるようなまねはしない。自分が腹の底から感じていることを自分で言葉にした「思想」が一番強いからだ。最初は破壊衝動だけで行動していた死柄木だが、ステインと接した経験、そして神野事件での「卒業」を境に、大きく成長を遂げた。自分が社会に違和感を感じていたのは、自分を捨てた人間の系譜がこの社会の秩序になっているからだと気づいたのである。死柄木は次なる裏社会の秩序になるだろう。あたかもオールマイトが出久を後継者として育てているように。

 

 

(3)子供たち

 さて、問題はこの先だ。「オールマイト以後」という時代区分に立ち会ったヒーローたちは、いかに「穴」と向き合うのだろうか。

 好ましくない経緯でNo.1となったエンデヴァーは、引退したオールマイトに「平和の象徴とは何か」と尋ねた。彼は自分が穴を埋められないことに責任を感じている。オールマイトはそれを見越して、「私の目指した象徴を君もなぞることはない」「自分にあったやり方を見つければいい」と話す。会話の最後、「何のために強くあるのか エンデヴァー 答えはきっととてもシンプルだ」というセリフとともに描かれるのは、子供の前で炎を出して見せる轟焦凍だ。親を憎んで使わずにいた「左」で子供たちと真摯にコミュニケーションを取ろうとする焦凍の姿が示す「答え」は、「目の前の人に全力で向かい合う」ことだろう。オールマイトは以前出久に「手の届かない場所の人間は救えない。だからこそ、象徴であり続ける」と告げている。ヒーローの根幹とは、まずはとにかく目の前の相手に全力で「手を伸ばし」、相手にも「手を伸ばしてもらう」、救済契約の成立だったはずだから。

  オールマイトのやったことを、ヒロアカは決して全肯定していない。彼が切り捨ててきたものを丁寧に描くし、彼のせいで苦しんだ人、縛られる社会も容赦なく出てくる。暗部がはっきり描写されている以上、このまま出久が第二のオールマイトになるかといえば、おそらくならないだろう。そうなってしまえば次に訪れるのは、出久が引退したあとの「デク以後」という虚無だからだ。今作がオールマイトを出久に挿げ替えて描きなおす物語だとは思えない。
 展開の予想という行為にさして意味を感じたことはないが、今の時点である程度の確信を持って想像できるのは「緑谷出久爆豪勝己を中心として、雄英高校のクラスメイトたちが並び立つヒーローになる」ということだろうか。なんといっても『僕のヒーロー“アカデミア”』なのだ。この章ではオールマイト以後を担うアカデミアの子供たちについて考え、想像の背景について記述していこうと思う。

 

⑶-ⅰ 緑谷出久

 緑谷出久というヒーロー志望者について、オールマイトの元サイドキックであるサー・ナイトアイは「私が理解できなかったオールマイトの底にある狂気によく似ている」と評した。サーはオール・フォー・ワンによって呼吸器を半壊する怪我を負ったオールマイトを必死に止め、「あなたはこのままでは凄惨に死ぬ」「人間らしい暮らしに戻ろう、引退しよう」と懇願したが、結局「その間に何人の人が苦しむ?」「私を探している人がいるから」と振り切られ、コンビ解消に至った経緯がある。解散の原因こそ価値観の違い、オールマイトの「狂気」なのだ。目の前の人の優しさを振り切って社会のために身投げした彼の思想の源流を、サーは出久に感じ取っていた。

 

 出久が持っているのは、オールマイトが人を助ける姿への憧れに由来する「人を助けたくなる衝動」である。相手がどう反応するか、自分は行動の責任を取れるのか、この行動が自分のその後にどう影響するのかなどを考えるより前に、苦しむ人に「手を伸ばして」しまう人物なのだ。自分で解決できない領域のことであってもなりふり構わず行動するせいで、「手を伸ばし」ても少なからず相手に迷惑がられたり拒絶されることもある。この点に関してオールマイトは「きれいごとを実践する仕事」「余計なお世話がヒーローの本質」と彼のこの性質を資質として認めているため、一つの意見として美徳と見ることはもちろんできる。

 その一方で、彼はヘドロ事件・保須市の事件・神野事件など、許可なく動く例が極めて多い。最終的にはよい方向に転がることが多いため毎度許されているが、母親からは「心臓がもたない」と泣かれたり「次は正規の活躍をしよう」と相澤に釘を刺されるなど、子供に秩序を教育する立場の人々からは何度も憂慮を示されている。彼の行動もまた秩序をかき乱す性格があることは見逃せない。「アカデミア」で教育される身としては極めて危うい立ち位置にあると言える。第1章では原初ヒーローとは「市民の信頼」で決まるものであったという経緯を確認したが、現在の超人社会において「信頼」云々の判断は制度と教育で代替されている。人を救うためにルールを破り続ける出久は、制度に収まりきらない「狂気」を抱えて立っているのであった。

 

 さて、出久に関しては〈拒絶されても手を伸ばして最終的に「救われる側」の心を開く〉という流れが繰り返し現れる点が重要である。

 具体的には轟との対話やマスキュラー戦などが挙げられるが、ここでは死穢八斎會事件について説明せねばならない。詳細は省くが、重要なポイントは緑谷の衝動が事件に救いをもたらしているということだ。最終決戦時、エリは救われることを一度諦める。自分のためにぼろぼろになっていくヒーローたちを見て、「自分が傷つく方がよっぽどよい」(=彼らは自分が受ける暴力をかわりに背負いきれない)と判断してしまうのだ。サーの予知も絶望的だった。具体的にはエリの死、治崎の逃走、ヒーローのたまごたちも負傷・死……。

 しかし、いくら傷ついても自分を諦めなかったミリオ、そして手を伸ばし続けた出久の姿によってエリに「救われる覚悟」が芽生える。結局事件の目的を達成した大きな要因は、覚悟を決めたエリの覚醒だった。このことをサーは「皆がそれぞれ未来を望むエネルギーをつむいだために予知が覆ったのだ」と話す。動けなくなるようなことは絶対するなと先生にとめられようが、救う対象に拒絶されようが、出久たちは自分の仕事を信じ抜いて状況を好転させたのであった。

 

 この事件の流れは読者に多くの予感をもたらす。オールマイト以後という時代は、出久たちの衝動がヒーローに火をつけ、ヒーロー一人一人が全力で伸ばせる限りに手を伸ばし続ける、「希望のエネルギー」が満ちた社会を作るのではないだろうか。言ってしまえば、全員がオールマイトになるのだ。そしてヒーローとヴィランの曖昧さなど、ヒーロー社会のルールをめぐる問題をここまで取り上げている以上、出久たちの成長とともに社会の方も変化していくのだろう。

 「熱の伝播」……節の最後に、仮免試験の最中、相澤が1-Aの印象について語った言葉を思い出して欲しい。「仲は最悪、クラスの中心にいるわけでもない、しかし「二人」の熱がクラスに熱を伝播させていく」……。もし先ほどの予想が的中し、オールマイトの引退した社会を「希望のエネルギー」を抱いたヒーローたちの「束」が超えていくとすれば、間違いなくこの先「オールマイト以後」の根幹となるのが、緑谷と爆豪なのである。

 

⑶-ⅱ 爆豪勝己

 なぜ「熱の伝播」の渦中が出久と爆豪がいるのか……それは熱の伝播には競争が不可欠であるからだ。今節では爆豪を中心に、幼馴染の関係性を解きほぐしてみたい。

 

 爆豪は本来自分を客観視できる理性の人であり、繊細なモラルや気遣いも持ち合わせているが、それらを振り切ってありあまる山のようなプライドが彼を過剰に攻撃的な行動に駆り立てている。だからこそ自分の言動の責任を取るつもりがあるし、むしろあえて競争を呼び込むために挑発をするキャラクターだ。彼は名前の通り、望む自分になるために今の自分と戦い続けているのだ。

 

  思えば最初から、爆豪は出久を認めなかった。自分より弱いくせに、何かあると「大丈夫?」と手を差し伸べてくる幼馴染の存在自体、爆豪には屈辱だったのだ。彼に「手を差し伸べられる」というのは、自分の弱さを突きつけられているのと同義である。出久という鏡に自分の許せない部分が映り込むからこそ、爆豪は彼を受け入れない。

 作中に登場する彼の転機を確認していこう。

 まず第1話である。中学時代の爆豪は、「ヒーローになって高額納税者ランキングに名を刻む」と豪語し、不良とつるみながら内申を気にする、表層的な振る舞いが目立つヒーロー志望者だ。出久をバカにした嫌がらせを続けて雄英進学を断念させようとするなど、わかりやすい「いやなやつ」である。1話冒頭では彼が「出久に対する世間の評価」そのものとして機能する。

 しかし、ヘドロ事件で爆豪は一変する。絶望的な状況に対して何もできないのに突っ込んできた出久の姿に衝撃を受けたのだ。ここで重要なのは、この事件が爆豪に与えた衝撃と世間の評価が裏腹だったことではないかと思う。爆豪が今までバカにしてきた相手の底知れない可能性を目にして恐れを抱いた一方、世間で賞賛されたのは抵抗し続けた爆豪で、出久は「危ないことをするな」と厳しくたしなめられた。このことは、彼の価値観を「世間の基準に君臨するための挑戦」から「己が目指す己になるための戦い」へシフトさせたのではないか。まさに「勝己」である。そしてこの思いはヘドロ事件の時に発生したものではなく、彼がもともと持っていたのに周囲にライバルがいないせいで忘れていた感覚なのだ。ここでも競争の必要性が浮かび上がった。そして同時に「世間に理解されない」彼の険しい道も強調されることになる。

 

 次いで、入学最初の戦闘訓練における敗北がある。ここで初めてはっきり現れてくるのが、出久が「君に勝ちたい」と言うことそのものへの拒絶である。爆豪はそもそも出久が自分と同じ土俵に上がってくるのが恐ろしいのだ。出久を自分と同じ単位であると認識したくない一心で爆豪は私怨に全振りした行動を取り敗北した。「ここから一番になってやる」という決意表明は、爆豪がヒーローになるための第一歩でもあり、出久をライバルとして認識する第一歩でもある。「他者によって己の弱さを知る」というそれまでの爆豪に不足していた姿勢が、ここで少し受け入れられる。

 そう、他者なのだ。のちの体育祭で「俺が一位になる」という宣誓を「笑わずに」(出久はこれが侮蔑ではなく「自分を追い込む」挑発だと見抜いた)行ったこと、そして轟の戦意喪失に激怒したのも、中学の時の彼からは想像もつかない成長ではないか。自分と相手が対等に闘志を抱いて全力でぶつかることを望んだのは、爆豪が他者を自分と同じ単位で認識した証拠ではないか。

 続く期末試験の出久との共闘で、爆豪は信念のために屈辱を飲み込む決断をする。一度は「出久の力を借りるぐらいなら負けた方がましだ」とまで言った、そこまで嫌っていた相手を、オールマイトという憧れを目の前にして初めて己のなかに組み込んだのだ。それでもまだ対話には至らない。

 

 

 爆豪が他者を認めることの意味は極めて重要だ。出久が皆の「先」に立って突っ走ることで熱を伝播させる存在であるのに対し、爆豪はその立ち位置とストイックすぎる生き方ゆえに他者に「背後から」火をつける。すなわち、常にできうるかぎり上を目指している爆豪がいることでクラスメイトは奮起するし、爆豪に認められることは粉飾一切抜きの承認だと確信できるのである。

 

 彼の他者認識に関して、林間合宿及び神野事件は極めて象徴的だ。出久は林間合宿で伸ばした手を爆豪に拒絶され、「完全敗北」を喫する(これも「救済契約の不成立」からくる敗北、という意味が含まれる)。その後彼は「まだ手は届く」という切島の言葉にあてられて「誰からも認められないエゴ」のつもりで爆豪救出に向かい、爆豪に「手を伸ばす」役割を「他のだれでもだめだ」として切島に依頼する。あの場にいたメンツのうち、最初から爆豪と対等に向き合い続けてきたのは切島だけだったからである。ヒーローがヒーローの手を取ることは救済である以上に協力だ。「助けられたわけではなく離脱に最適な手段がお前たちだっただけ」と爆豪が強調しているが、切島はこの屁理屈を笑顔で受け入れる。お互いに尊敬があるからそれができる。幼馴染にはそれができない。

 

 出久と爆豪の憧れの違いは残酷に現れる。仮免試験のあと、出久を深夜のグラウンドに呼び出した爆豪は、出久の個性がオールマイトから受け継いだものであると看破した上で「お前の憧れが正しくて俺の憧れは間違っていたのか」と問う。

 幼馴染はこの夜、初めて対話した。爆豪が「俺を見下してるような俯瞰する目に腹が立つ」と言っている一方、出久は「君のすごさが鮮烈だったから君を追いかけてきた」と話す。二人の立ち位置に関する認識には奇妙なずれがあった。出久の目では、スタート位置に著しい違いこそあれ、自分と爆豪が同じ道を走っていると考えている。しかし爆豪の感覚では、「遥か後ろを走っていると思っていたやつが自分を俯瞰していた」、つまり出久の位置は上空=自分より高次なのである。爆豪は聡明だ。だからこそ「正しさ」に自分が焼かれている感覚を冷静に感じ取った。爆豪が持ち出した「正しさ」とはオールマイトという秩序に照らした正当性である。爆豪は知っている、自分が世間からは攻撃的で粗暴だと思われていること、その視線がヒーローの資質に対する疑いと極めて近いこと。そして、他者に優越しようとする己の衝動が、誰に何を言われようと「もう曲げられない」純粋な憧れであることを。だからこそ苦しい。一時代の秩序を一人で背負ったオールマイトと、彼に認められて後継者になった幼馴染。この二人の師弟関係が今後のヒーロー社会の根幹だとするなら、自分は出久に「存在ごと」負けたということではないか。彼は自分の根幹を疑って悩む。

  ここで思い出す。神野事件での一幕で、爆豪はヴィランから勧誘を受けた。原初ヒーローとヴィランを分けた基準=人気/市民からの信頼=に照らすならば、彼はヴィランになってもおかしくないのだ。死柄木が爆豪を勧誘するときに語った「なぜこの状況でヒーローばかりが責められているのか」「ここにいるのはみなヒーロー社会に縛られて苦しんだ人間である」という演説は、つまるところ「ヒーロー」と「ヴィラン」を分ける壁の危うさと恣意性に対する疑問であり、これらに無責任に身を委ねて平和を「消費」する社会への怒りでもあった。そして死柄木は、爆豪がこれらに共感してくれると考えたのである。

 確かにこれまで爆豪は「個性」と「ヒーロー」をめぐる政治的評価に翻弄され続けてきた。「ヒーロー向きの『いい』個性ね」と言われて誉めそやされ、彼自身を見つめた人はごく少ないままだった。自分の信念に従って行動すれば拘束を受け、世間では「凶暴だからヴィランになってしまうかも」と「判断」された。

  それでも彼は屈服しない。彼が出した答えは「全部俺のものにして上へいく」という一言に集約されている。幼馴染が初めて対話した夜、オールマイトは爆豪に謝罪するが、爆豪は「今更……」と抵抗感を示し、彼に頭を撫でられても払い除けた。爆豪は「君も少年なのに」と「守られるべき子供と守るべき大人」の立場から気遣われたかったわけではなかった。オールマイトと対等に戦って彼の上に立つつもりだったのだ。それが立ちはだかるものをねじふせたいという衝動と「オールマイトの勝つ姿への憧れ」を根本に抱いて生きてきた爆豪の「道」だった。オールマイトが秩序になっているなら、オールマイトになるのではなくオールマイトそのものを超えたい。彼は秩序に苦しんでいたわけではない。秩序に翻弄されるぐらい、爆豪にとってはただ圧倒すればいいだけのわずかなハンデなのだ。全部超える。ねじふせる。「プルスウルトラ」という標語通り、爆豪もまた「超えていく」パワーの持ち主だった。だからこそ、あの場面で初めて幼馴染が「まっとうにライバルっぽく」なったのは、爆豪が「オールマイトを超える」という目標の対象として後継者である出久を受け入れたことに他ならない。オールマイトに選ばれなかったこと、自分がまだ守られてしまうほど弱いこと。爆豪は他者に接してそれらを認識し、受け入れた上で全部超える。爆豪は自分にはそれができると信じているから、「やることは変わらない」。

 

 

(4)総括

 以上、まとまりなく目についたことを書き上げてきた。「読めばわかることしか書いてない」と思う方も「拡大解釈だ」と違和感を感じる方もいることかと思うが、一ファンの読解としてご容赦いただきたい。私がこの作品を愛読するのは、多角的に社会を描く姿勢が好きだからだ。「ヒーローアカデミア」は、子供たちがヒーローという概念を教育と経験で身に付けていく場所である。彼らが社会の危うさ、自明でないものの上に立ち、これからどんな道を選ぶのか、今後も丁寧に読んでいきたい。