「想像上の他者の人生」と向き合うということ

※昨年の日付で保存されていた文章が少し面白かったので公開

 

 

 

 ここ1年ほど、あるアーティストを好きになって追いかけ始めたのだが、時折どうしようもなくつらくなった。実在する人間にハマったことが本当に久しぶりで、生きている人間を「追う」ことの難しさに疲れてしまったのだ。

 生きているアーティストは、ファンと同じ時代に生まれ、リアルタイムで情報発信をし、ファンが息をしているこの一瞬一瞬を、違う場所で息をして暮らしている。ファンはライブ情報や時折発信される生活の話を追い、情報をかき集めて尊ぶ。

 ライブを見に行った時、その人が目の前で歌っているところを見て、情報量の多さにうちのめされた。この人は生きているのだと思った。そしてその身体、目の前で躍動するその身体には、生活があるのだと知った。目の前で歌うその人を見るまで、私はその人が自分と同じ時代に「暮らしている」のだと思っていなかった。

生きている人だ。

 今まで私が追ってきた人は、南北朝時代の人だった。彼が死んだお寺で働いて週2でお参りし、自分の近況を墓前に報告した。本が出れば買って読み、当時のことを研究した。真実を求めた。彼が生きたことを示す言説は豊かな過去の中に飲み込まれながらも確かに存在したが、2017年の我々はそれを直接見ることができない。だからこそ、すべての人がそこに触れられないことが前提となって、彼を探すのだ。それは信仰だった。誰にも触れないものを必死で見ようとするときが一番幸せだった。私の暴力的な探求を受け止められるだけの大きな隔たりが、私と彼との間には時間という形で存在する。

 

 生きている人には真実がある。触れられる場所にある。それが怖かった。死ぬ気で調べれば触れられるところに真実があっても、もちろんファンはファンのために用意された情報だけを受け取らねばならない。ファンのために用意された情報によって構築された虚像は、私という一人のファンの頭の中に出来上がった「想像上の他者の人生」だった。真実は目の前にあり、同時にない。追い求めてはいけない。相手が人間であり生活していること、今を生きているというのは、相手は神様ではないということだった。真実の信仰は不可能だった。

 

 漫画の「ハイキュー!!」も、自分にとっては極めて面白く、同時に酷な漫画であった。言わずと知れた大ヒットバレーボール漫画だが、ここに出てくる選手たちは皆愚直で純真で、生命力にあふれている。悪意がないのだ。他人を憎んだり、殺してやりたいと本気で思ったり、悪意にうちのめされて動けなくなったりしないのだ。読みながら、最終的に絶対に全員が前を向いて終わるのだろうという確信が持てる。そういう人たちのぶつかり合いが、極めて身体的な次元の言葉と絵で表現される。

自分が何よりも拒絶してきた《身体》をフル活用している人が美しく見えるとき、自分の生は何よりもくすんで見えた。光に焼かれる感覚が痛かった。フィクションなのだからそんなこと考えても意味がない、とは何度も思った。それでも、人生に対する解像度の高い漫画のキャラクターは、「想像上の他者の人生」という次元においては前述のアーティストと同じ平面におり、私の中ではリアリティーを持って立ち上がっている、一人の人間なのだった。

 

 そう、何よりも嫌なのは、美しいもの・尊いものを見ているとき、猛烈に自分という視点を意識してしまうことなのだ。ここまで気持ちの悪い文章をだらだらと書いてきて、本当に申し訳ない気持ちになっている。自分を失って、ただ純粋にすばらしいものにすばらしいですねと言いたい。言いたいのだが、私はどうしようもなく私であり、邪魔な身体を引きずってここにいる。

 これは自己陶酔であるという誹りを免れないし、自己陶酔である自覚があるからこそそれをやめようとし、やめようとすることで逆に意識はもう一度自分へ向く。絶望だ。生きていることはいつもつらい。それでも、あの人の歌が聴きたい、あの漫画の続きが読みたい、という気持ちは、確実に私を生かしている。